朱智ダブルクラブワーク③

おかげさまでなんとかPCの前に座ってブログを書けるようになりました。ご心配をおかけしました方々、そしてご返信・ご発送など遅れました方々、申し訳ありませんでした。今日からほぼ、通常業務に戻っております。


シデかしてくれました鳩山元首相。無茶振りイラン訪問でしたが、シデかすと言えば幣原喜重郎氏。

「幣原」という語彙は、欧米人にとっては発音しづらいものであったらしく、或る日、幣原は外国人記者から次の様な質問をされた。
記者:「閣下。貴方のファミリーネームは『シデハラ』なのですか?それとも『ヒデハラ』なのですか?」
幣原:「私(男性)は、『ヒーデハラ(Heデハラ)』で、家内(女性)は『シーデハラ(Sheデハラ)』です。」
外交官出身なために英語に詳しく、旺盛なユーモア精神の持ち主でもあった幣原は、このように答えたという。周りの者は仕方が無いので追従笑いでごまかしたそうである。wikipedia:幣原喜重郎

幣原喜重郎氏の出生地は、大阪府茨田郡門真一番村です。wikipedia:茨田郡の茨田は、まんだ・まむた・まったなどと読むらしいですが、継体天皇のお妃に茨田皇女(まんたのひめみこ)という方がいます。ちょうど昨日、まんたって面白い読み方だなと思っていたところに鳩さんが無茶振り、まるで茨木市の市章のようです。

2週連続ワークで継体茨木ワークもあまりレポートできていなかったので、つながるところはつなげていきたいと思います。

やはり何度も何度も出てくるこの水兵さん、一体どなたなのでしょうか?石清水八幡宮の駐車場にある銅像です。昨年12月の伏見稲荷・石清水八幡宮ワークで訪れました。あの時はまだ綴喜郡自体を知りませんでしたから、短い間でこれほど木津川水運に関わる古代認識が深まって非常に有難いことであります。

継体ワーク翌日に再度、今城塚古墳に訪問したとは書きましたが、その時に気になっていた水無瀬神宮を通りまして男山を北岸から再度確認しました。その後、大山崎ジャンクションから高速に乗りましたが、迷路のようなジャンクションで首都高よりも入り乱れていると感じました。さすがに大山崎の天王山、いくつもの時代へのインターチェンジがあるようです。夕暮れがきれいでした。

話を茨田皇女に戻しますと宮内庁指定の継体天皇陵の近くにwikipedia:女九神社という字が地図に見えて行くつもりでしたが行けずしまいでした。歩く古語拾遺のPちゃんが確か、継体天皇が亡くなった時に9人の妃が殉死したみたいなことを言っていたので、皆でじゃあこの女九とはもしかして・・・になっていたのでした。行けなかったというのは行かないほうが良かったということかもしれません。

福井県禅定神社(玄松子さん)に茨田皇女の伝承があり、この地に来て亡くなったと言われているので、茨田皇女はwikipedia:殉死しなかったほうの3人なのかもしれません。今日はお昼に鯖を戴きましたので鯖江市・鯖街道、熱いです。越前國今立郡気になりますね。誰か今立とか言っていたような気がします。

茨田皇女についてむちゃ詳しく書かれている方がいますのでご参考に。茨田連小望の女関媛北河内古代人物誌)

和名抄は「茨田」に「萬牟多(まむた)」という読みを記している。「マムタ」は低湿地の意味であると云う。しかし、延喜式では「茨田」を「ウハラタ」と読ませている。「ウハラ」は「イバラ」の古語である。(北河内古代人物誌)

これはまるで少しオルタナティブの世界で大和をヤマトと読む民族とダイワと読む民族がいたという仮説を裏付ける傍証になりそうですね。音読み・訓読みの起源もよくわかりませんがカタカムナ好きの人に言わせればこれは間違いなくカタカムナが存在したひとつの証拠だという感じになるかもしれません。

大山崎付近が古代、wikipedia:乙訓郡なので訓読みの起源は意外と大山崎にあるのかもしれませんね。

乙訓は昔この地方が「弟国」と呼ばれていたのが語源とされる。なお、「兄国」は葛野郡(現在の京都市西部)だと言われている。wikipedia:乙訓郡

乙訓⇒弟国の順序ならわかりますが、その逆は不思議な現象です。三河にはwikipedia:乙川男川があり2つもオトガワと読みます。2河川合流付近に雄龍頭・雌龍頭という古い陰陽信仰の痕跡があることから乙が女性の意味で用いられた可能性が高く、それを適用しますと弟国⇒乙訓の変遷は何か怪しさを醸し出しています。しかも石清水八幡宮があるのは男山。しかもそれは鳩ヶ峰の別称です。余計な詮索はイランでしょうか。。


「マムタ」が低湿地を意味するならば、おそらくマムシと語源を一にしていると思います。マムシはジメジメ暗く水っぽいところにいます。毒を持っているという点におきましても茨と通じるものがあります。つまり、茨田をマムタと呼んでいた人々は、茨をネガティブに捉えていた可能性が高く、それとは逆にウハラ・ウマラと呼んでいた人々は茨を薔薇色と捉えていた可能性が高いということです。つまり、淀川を挟んで宗教意識が異なっていたということですよね。。

低湿地は差別された人々が住まされていて、ルールを破ったものにマムシや茨の刑が実施されていたのかもしれません。継体天皇ワークの前の日に蛇の夢でうなされていたのでその原因がなんとなくわかりました。差別は7世紀以降だと思うので時代推定を時間かけてやってみます。

夢で見たような場所が継体天皇陵の近くにあったので当日は驚きました。通常の土地よりかなり地盤が低い囲まれた場所があって(かなり広い、おそらく片側の土手は写真と同じように天井川の砂防によって囲われている)、その四角い低い土地の中にニョロニョロと無数の蛇がいるのです。その蛇楽園に無理に行かせられようとする夢。かなり高低差を感じました。蛇は嫌いではないですが、さすがにその次の日は蛇は見たくなかったです。

ただそれはwikipedia:盟神探湯的なものでもあったかもしれないので今のところ、結論は控えたいと思います。

例えば、wikipedia:ケーリュケイオンのように杖を持たされて突き落とされた巫女が2匹の蛇を従わせることができたか、というような盟神探湯的ものでもあったのかもしれない。ケーリュケイオンにもハトの羽がついているので、そこがヤマ場ですね。これもイラン無茶振りかもしれないですね。。