大和のキャプテンシー 〜 好むと好まざるとに関わらず 〜

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サッカーW杯での日本代表対ポーランド

残り10分間のパス回しが物議を醸している。




①最後まで攻める姿勢を崩さずに引き分けに持ち込む⇒正道



②最後まで攻める姿勢を崩さずに逆にカウンターで失点
もしくは警告をもらい僅差で決勝Tを逃す⇒華々しく散る



もし仮にパス回しをしなかった場合、上記2つのパターンが考えられるがFIFAランキング8位のポーランドと61位の日本が対等に戦えていること自体が不思議であるにも関わらず、残り10分で同点に追いつけるというのは、どう考えても過信ではないのかと考える。



つまり、日本には②の華々しく散るパターンかパス回しで狡猾に決勝Tに駒を進めるかの2つの選択肢しかなかったということである。



その2つの選択肢の中で②を選択する人々は戦時中であれば”神風”を正当化していただろう。


外国人が日本代表に②を求めるのは全く異なるメンタリティーからである。当然、日本人に対する人種差別の意味合いがあるということは間違いがない。


それにプラス、日本人=サムライという認識も強い。その”サムライ”認識は、当然、《七人のサムライ》で描かれたサムライのことである。



つまり、外国人の日本人に対する評価はあまりあてにならないし、聞く必要がない。サムライには黒田官兵衛のような戦略家もいたし、織田信長のような残虐極まりない大陸の人物のような人間もいた。



サムライはフェアプレイをする、というのはあらかたステレオタイプでしかないことを認識する必要がある。



そして我々が、太平洋戦争の失敗の本質を知り、それを克服するとすれば”不用意な玉砕を抑制”するメンタリティを持つ必要がある。この点において、おおかた日本の論調は今のところ正しいかと思われる。


しかし、それが資本主義的損得勘定思考から出てきているのなら間違いである。


結果が全てだ、という考え方は、お金が全てだ、という考え方と同類項と思わなければならない。つまり、それは太平洋戦争の失敗の本質を克服してはいるが、戦後資本主義の限界からは脱却できていない。



この2つの点から、これからの日本人が持たなければならない認識というのは、結果もプロセスも重要だが、より重要な意味を持つのは結果である、という地点である。



これを資本主義に転写してみると、売り上げの拡大は重要だが、それがどのような拡大の構造を持っているかがもっと重要である、ということである。


ここにおける”拡大の構造”には、当然、地域への貢献や社会的意義も多分に含まれる。


これを端的に言ってしまえば『社会起業』という語に集約される。



日本人の不屈の闘志や長谷部に見えるキャプテンシーは、日本人にも気づかない究極の日本的真実である。


それを垣間見た外国人がポーランド戦で全く逆の日本人の狡猾さを見た時に必要以上に逆上するのは致し方ないことである。それは彼らが既に実質的な皇室と騎士道を失ってしまっている喪失感からくる羨望に似た眼差しを日本代表に照らし合わせていた事実をも物語る。



ポーランド戦のパス回しの賛否に一喜一憂している場合ではない。第二次世界大戦、戦後資本主義の亡霊を乗り越えるというのなら、少なくとも第一次世界大戦時、日英海軍が拠点を置いたマルタ島における日本人としてのキャプテンシーのようなものを取り戻さなくてはならない。




日本のサッカースタイルは欧州でも南米でも、ましてやアジアでもない。日本独自のものである。スタイルで言えば、日本は既に5大陸に属さない6大陸目のスタイルである。


明治の近代国家成立以降、欧州・アメリカを踏襲してきたスタイルからも脱却しなければならない。既に働き方の革新、居住の仕方に関する革命、そして通貨や価値に対する変革。小さいながらも価値観の大地殻変動は起こっている。



あとはそれが蜘蛛の目のように広がり、一気に連鎖ドミノで裏返る。夜明けは近い。アンシャンレジームは一気に瓦解する。







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