伊勢プリメリックエステート① 〜 原始に戻る力 〜
山の頂点には余計な装備を捨てれば捨てるほど到達し易い
人生においても余計な体験によるネガティブなエネルギーという装備を棄てれば捨てるほど
Top of the Life に到達し易い
文明もまた余計な期間を捨て原始に戻れば戻るほど頂点に到達し易い
われわれ、東アジアの歴史観は西洋のように決して直線的なものではない
円(縁)であり、丸(仏)であり、巡り(女神)でもある。
知性を捨て原始に戻ることによってわたしたちは
Pre(以前)のmerry(陽気)な状態へと戻ることができる。
何かを得るのではなく、捨てることによって湧いてくる原始の感情
それが丸であり、女神でもあり、オモイカネの知性でもある。
トヨウケの保食(ウケモチ)とは
その捨つるエネルギーを受け止めてくれる偉大な存在
つまり
オモイカネとは私たちが心から重荷を降ろそうとした状態と意識のことを表しており
トヨウケとは
その重荷を受け止める場所も心の中に用意されているということを意味している。
なぜ外宮先拝なのか?ここにその理由がある。
つまり、宮川で禊、さらに二見興玉でも禊、をし神域の核に入る直前でも尚
外宮禊があるということである。
そこまでして到達したかった心の原子核、アマテラスとは一体どのような意識状態のことを意味しているのか?
荒御霊が瀬織津姫。これは祓戸の女神で出雲大社あるいは春日大社の入り口にも祀られている。
これはつまり、兜(甲山)を脱いだ状態を神格化している。
これを表したのがカットリ(兜取り)→香取神社ということになる。
全国の香取神社を巡るとそのことがハッキリとわかるようになる。
つまり、兜を取り、劔を置く和平行為が日本の神社神道の目的なのである。
なぜわれわれの先祖が長い青銅器時代を続け、音(男・乙)の銅鐸を巨大化させていったのか
その理由は、全国の神社や伊勢の内宮にさえ散りばめられている。
武器を棄て、原始の純白な心(赤き心)で他民族と融和し大同団結する手段が示されている。
禊をして戦争に行く人はいない
又
赤ちゃん同士が戦争をするわけがない。
重い金(オモイカネ)を棄てることによってわたしたちは誰ひとり差別されることなく
和平へと向かえるのである。
身も心も軽くなれば私たちは平等に新たな知性を得る。
アダム(男)とイヴ(乙)の時代から
田 + 力 = 男 = タヂカラヲ = 音によって岩戸開き
心には50の鈴がある。