井出よ!アクエリアンマスター太刀よ!

共鳴力・共振力というのは非常に重要です。本来、人間とは自分の目的のために生きる生き物ですが自分以外のもののために共鳴し、共振していくというのが女神性になるでしょう。

【つまらないから⇒やめる】、【気が乗らないから⇒やめる】、【しんどそうだから⇒やめる】、これが普通の人の反応です。ここでもうすでに差ができています。【つまらない⇒どうやったら楽しくできるか考え、日々実践する】、【気が乗らない⇒気が乗らない原因を考え、問題を即座に解決する(内側の行動の源泉が曇っている原因をなるべく早く突き止める)】、【しんどそう⇒しんどさが何によってもたらされているのかを考え、問題を即座に解決する(身体がしんどいのか心がしんどいのか魂がしんどいのかを切り分けすることによって問題の根源は即座にわかります)】

成長が早い人はもちろん後者です。私が無限ループと呼んでいるのは前者のことです。すべてが受身で自分に降りかかる現象を常に自分以外の誰か、自分以外の何かのせいにしている人たちです。前者の思考パターンは、常に受け取ることしか考えていない<享受>の思考パターンと呼びます。一方で後者の思考パターンは自らの源泉と常につながり無限のパワーを手にいれた<授与>の思考パターンと呼びます。後者は<ハイヤーセルフとつながっている>とも言います。

自分で道を切り開けない人たちは、自分に降りかかってくる現象を自分以外の何かだと思っています。これを【スピリチュアル・クラウド】と呼びます。そのクラウドを人のせいにしたり、曇っていることを正当化することを【スピリチュアル・エゴ】と呼びます。受け取りたければまず与え、受け取りたければまず参加し、受け取りたければまず愛する、これは基本中の基本でございます。

<享受>の思考パターンに陥っている人は、常に自分を愛してくれる人、自分を認めてくれる人を探しています。そして常に何かが違う、何かが違うと男女関係でも人間関係でもスピリチュアル関係でも、渡り鳥のように渡り歩きます。残念ながらそういう方たちはいつまで渡っても答え(真の愛)には辿り着けません。なぜなら<渡しの大神>は<私の大神>でもあるからです。


認められたいと思うのであれば、まず自分がこの世界を認めなければなりません。

愛されたいと思うのであれば、愛が存在するこの現象世界を愛しく思わなければなりません。

受け取りたいと思うのであれば、与え与えられる巡りの中で自分も与えなければなりません。


結局はまず自分がサイコロを振っているかどうかだけの問題なのです。まず自分がサイコロを振ってみる。誰かと同じサイコロでは誰も振り向いてくれません。人は自分以上にオリジナリティを見破る力を持っています。

これらの宇宙の法則を超えて無条件の愛を与えてくれると錯覚してしまうのが『宗教』です。宗教は自分からサイコロを振り出さなくても愛を与えてくれます。そこに代償があるとは気づかない人が宗教に嵌っていきます。代償とは自分の外側の神を信仰しなければいけないというドグマ(教義)です。そのような共依存の関係を私はお勧めしていません。しかし否定もしません。なぜならその中でしか生きることができない方々も現実に存在するからです。

ただ、私は内側の泉を掘り当てることによって自らが積極的に与えていける、そのような愛のマスターになって皆が輝いていけることを希望しています。それは不可能ではありません。内側の泉が枯れることを気が枯れる、つまり穢れと呼びます。穢れを祓うことを禊と呼びます。人間は誰しも禊によって曲(まが)を直(なほ)すことができます。

神道の原理は、人間には本来このような泉を復活させる再生力があることを物語っています。禊というのは常に新しく生まれ変わるということであり、同じことを繰り返していたとしても、そこに新たな発見をし続けて生まれ変わり続けることをも意味しています。<つまらない・楽しくない・気が乗らない>と感じる時、そこに一体何が存在しているでしょうか?結果には原因が必ず存在します。自分は常にその原因と向き合っているでしょうか?過ぎていく日常の中で感情に捉われて大事な何かを失っていないでしょうか?

<できない・無理だ・やりたくない、、、>。では<やりたい・楽しい・自由になれる>ことは何でしょうか?そのことに対して一歩が踏み出せていないのは自分自身なのです。人はその一歩を踏み出せないことを人のせいにする生き物です。そして踏み出せないことを自己正当化する生き物でもあります。東日本が危機的状況にある中で昨日よりも今日、今日よりも明日、目の前の現実を何も変革することができていないとすれば、それは何もやっていない、何も考えていないことと同じです。

スポーツをやれば結果はすぐに出ます。自分がどれほど未熟かは、スコアで結果として返ってくるからです。しかしスピリチュアルの世界は、そうもいきません。自分が【できています】と言えばどこまでも逃げ切れることのできる世界だからです。残念ながら現在のスピの世界は資本主義社会で適応できない不適応者が流れてきているパターンが多く存在します。しかし本来、私たちが作ろうとした第三極スピリチュアルは戦後資本主義構造を超える社会を生み出すために立ち上げたものです。

資本主義社会脱落者8割に入るか資本主義超越者アクエリアンマスター2割に入るかは、それぞれの心掛け次第です。それを推し量る指標は、昨日と今日で自分の目の前の現実がどう変わったかで判断することができます。神社を回り始めたとか、マスター友達が増えたとか、、、そんなことで社会が変わるはずもないでしょう。船は目標があるからこそ目的地に到着できます。皆のひとりひとりの力が活かされるのは、ひとりひとりの力が活かされるシステムと方向性と訓練があってこそです。誰かのブログを読んで先覚者を気取り、マスター気分に浸るのは、公園のボートで太平洋を横断しようとしていることと同じです。

自分の足で現実を知り、人の愛に触れ、自分の人生を賭けて行動していく。そのような人たちが増えなければこの国は変わりません。このブログを読んでくださっている方は多少なりともそのことを理解されているからここにこうして来てくださっているのだと思います。

以前から申し上げていますが、現実的行動とは、社会活動をしている人たちに感謝するか、お金を拠出するか、現実的行動で参加するかのいずれかです。もし自分もやっているというのであればその成果を私にお知らせください。成果を挙げている方とは対等な立場で協働させて頂きたく思いますのでどうぞよろしくお願いいたします。

上記4つのどれにも該当しない方は、暗に原発を支持し、福島の子供たちを傷つけ続けている組織の者としてしか論理的に認識できませんので、少し距離を置かせてもらっていますのでご了承ください。私は10年間、癒しの場でお仕事をさせてもらっていますが、原発人災ほど子供たちの心の傷を増やした事件は日本史上いまだかつてないと思っています。なぜなら、大人たちがいかにも善の仮面をかぶり、悪事を働いているからです。

悪事を働くつもりがない人でも結果的にそうなってしまっているのは、以前にも書きましたように、そこに人間としての甘さと弱さがあるからです。なのでそれと同じ精神構造を持った人たちは【改善すべき人間】として私が判断する人間です。そうしなければ残念ながら今の日本では子供たちを守ることはできません。

この部分において女子は比較的、思考が柔軟なため本質を見抜いている人たちはが多いですが、日本の男子はどこまでも凝り固まっている人が多数います。だからこそこの国には今、祓戸の女神・瀬織津姫が必要なのです。この女神の神名を知りながら、この女神の本質を知らないとはいかに愚かなことでありましょうか。

アクエリアスの時代に私たちが突入するということは自分の周りにいる人間の考え方をひとりでも多く今日、変えていくことです。巨大な光が降りてきて皆の意識が一変に変わるなどというオカルトを信じている人がいるとすれば本当におめでたいと思います。道を切り開くのは神ではなく人間です。平安の占い世界から現実の武士の世に社会を牽引したのはモノノフです。徳川の麻酔から近代へ時代を転回させたのもモノノフです。そして今回ももちろんモノノフがアクエリアスへと時代をコペルニクス的転回をさせます。その時代の波に乗り、活躍したいのであれば、今日生まれ変わる必要があるでしょう。

いつまでもグダグダとつまらない戦後構造の中で享楽的な日々を惰性的に過ごしてみても未来はありません。閉じ逝く市場、閉じ逝く知性、閉じ逝く環境の中で自らの魂も閉じ逝くだけです。わかっているなら行動、行動できていないなら反省、右も左もわからなければ参加、3秒で思考の切り分けは完了するはずです。グダグダちゃんさようなら、真のヒーリングマスターいらっしゃい。ヒーリングマスターテンプルは勢いだけお持ちであればOKです!能力は後からついてきます。

目があり、耳があり、口があるのに意思表示ができないのはなぜでしょうか?そこにあるのは”怖れ”のみです。”怖れ”を克服できるのは”愛と感謝”のみです。これはスピの基本中の基本です。目と耳と口への”感謝”と”怖れ”、どちらが強いですか?この問題に取り組んだことのない人はもちろん”怖れ”が強いです。怖れは闇なので意思表示ができないでしょう。目指すべき場所がわからないからです。

五体満足でいる方は目と耳と口と鼻があることに心の底から感謝してください。そうすれば私の言っていることの意味がさらにわかるようになると思います。五体不満足な方、生きたくても生きられない方、食べたくても食べられない方が世界中にはたくさんいるのです。あなたがグダグダしている5分間に一人、世界のどこかで不遇な方たちが亡くなっているのです。

あまり深刻なことを書きすぎますと、逆に無用な怖れを喚起させてしまいますので、標題で落としておきます。