長岡リコールマイセルフ① 〜 横たわる女神性 〜

kohya_hibiki+spirituality2012-09-24



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日本の女神性が今でも息づいているのは、神功皇后神話からも見て取れます。

女神性とは男性原理をも超越するものですから、男性原理をも包み込むというエネルギーがあります。神功皇后が身篭りながら出兵したという神話にもその包み込む原理というものを読み取ることができます。

天照大神がここで降誕され、その胞衣(えな)がこの山に埋められたwikipedia:恵那山

アマテラス伝承にも包み込む原理が投影されています。

胎盤は分娩時、胎児のあとに後産として娩出される。後産として共に出てくる羊膜・臍帯などを含めて胞衣(えな)と称される。
wikipedia:胎盤


その男性原理を包み込むエネルギーが男性原理の象徴である”戦争”をストップさせたのです。愛が力を現実的に上回る瞬間です。神功皇后三韓征伐を行いましたが、現実的にそれがあったのかどうかは今のところ証明されていません。


神功皇后は自分を守って戦ったのではなく子供たちと国の未来をかけて戦ったのです。

逆に対抗しようとせずに受容だけするようにすれば女性性は女神性へとどんどん近づきます。ただほとんどの場合、”受け入れられない”という問題が出てきます。その受け入れられるレベルこそ女神性深化のテーマとなります。

年を重ねれば重ねるほど通常は、人間は対抗心が減少していきますが(たまに年老いてもこだわりの塊という方もいます)、他者の対抗心に苦しんでいる方は、自分が強いこだわりや対抗心を持っていることにあまり気付きません。対抗心は対抗心を呼び、赦しは赦しを呼び込みます。誰かに赦されたいと心の底から願っている人は、自分で自分を赦していないという現実があり、だからこそ誰かに赦して安心させて欲しいという欲求公式が成立してきます。


他者を受容し、受け入れ、尽くし、現象世界のあらゆる所作を能動的に認めた時に”多様性”というものを認識します。ここで初めて”真実の自由”という概念を手に入れます。これが<八百万の神々>というエネルギー認知の基礎になります。自分に赦しを与えられず、その自分での束縛から逃れたいと”仮想的自由”を希求している場合は、前者の”真実の自由”を認知することはできません。自分で自分を赦すことができていないという受動性が、何かから逃れたいという外部への受動性へと転嫁していくからです。


つまり、能動的”真実の自由”の前提には必ず、自分で自分を赦し、他者や社会の問題に積極的に関与し、周囲に尽くし愛するという行為が存在するのです。


自らを赦し愛している人は、他者を赦し愛することができる。これもまたスピリチュアリティの基礎中の基礎になります。愛することは簡単ですが愛し続けることは難しいです。自分以外のものであれば愛せなくなれば離れれば良いですが、自分への場合はそういうわけにもいきません。これは現実的にパラドックスですが、”自分を愛せないわけにはいかない”という深い存在への悟りに到達した時に、かなりの高い段階で深い愛の泉に到達します。日本神話や日本聖地はこのような内奥の旅と呼応して編まれています。山上の鏡のような泉に踏み入ることは、自分の内側の存在への確信・悟りと似ています。この哲学的認識の如何によってしかエネルギーを扱うことはできません。エネルギー認識とは『現象』と『存在』を的確に認知することに他なりません。


”自分がいなくてもいいんだ”というのは自分という存在に対する否定でありますので、それを行うことによってエネルギーが落ちます。先ほども書いたように『現象』と『存在』に対する的確な認知をした時にエネルギーは最大限高まります。あらゆる武道にも通じるでしょう。一瞬の空想や妄想、幻想が命取りになっていたのが武士道ですから、現状を的確に認識することが肉体と魂のパワーを最大限引き出すを悟っていたことは言うまでもありません。そのような感覚でガイア(地球という生命体)のツボである聖地を見ますと、私たちが人間がガイアという存在を的確に認知するというのが聖地巡礼であるということがおわかり頂けると思います。古代の人たちも巨大な人間が横たわっているという認識を持っていました。その巨大な人間を”カミ”と呼び、そこからエネルギー生まれてくる現象を”御生れ(ミアレ)”と呼んでいました。


聖地巡礼ワークはHMTで、エネルギーの原理原則論はFive Element Workers (FEW)で行っていますのでお気軽にお問い合わせください。


聖徳太子は、”和をもって貴しとなす”という言葉であらゆる争いをやめさせましたが、彼が実在であったかどうかは別にして、彼が男性であったか女性であったかはよくわからないところもあります。

ひとつ言えることは、日本人の中にこの男性とも女性とも判別しがたい女神性の強烈な認識が”カミ”と結びついていたことは間違いがありません。


日本人の女神性は本当に美しいです。


身ごもりながら朝鮮出兵した神功皇后が、そのような戦前までの日本社会の女性性の頂点の女神性であったことは言うまでもありません。神託と政治を行うシャーマンとはこのような現実的に泥臭いものです。


宗教者の本質とは、”周りに尽くすこと”に尽きます。

尽くすということはエネルギーを持っているということですから、エネルギーの循環を知っているということになります。

この原理原則を体得することが、どんなエネルギーワークやエネルギーヒーリングでも基本になります。



かなり、前置きが長くなりましたが、長岡ワークは色々なものを投げかけてくれました。一番驚いたのは、長岡京の時代までは太陽神が存在したということ。もちろん伊勢神宮でお祀りされている政治的なアマテラス大神とは異なる、土着の信仰から継続されてきた泥臭い太陽神です。

天武天皇が強制的な政治改革で太陽神を伊勢に収斂させようとしましたが、長岡京の時代はまだそれほど徹底されていなかったようです。どちらかと言えば皇室祭祀が秦氏賀茂氏の宗教意識に大きく左右されていたというエネルギーを感じました。

その後、平安京に遷都して国粋化と中国化が進んだというのが現実でしょう。



長岡に棲んでいる太陽神は、神功皇后聖徳太子とアマテラスと瀬織津姫のすべてに通じる神です。そのエネルギーの汎用性と本質性は今までどこでも感じたことのなかったものでしたから、おそらくここから枝分かれしていったのではないかと思います。ただそのエネルギーの原始が長岡にあったかどうかは断定はできません。

やはり前々から当ブログでもお伝えしているように宝塚の山の中とか丹波、播磨全域は非常に怪しさてんこ盛りです。HMTの方からも『原』に関する話も頂いていますので、おそらくこれから葦”原”中国のエネルギー原理に迫ることができると思います。

私の中でも古墳時代最高神がケルテイックカヤノヒメだという認識が強いので、おそらくそっちのほうに流れていくと思います。コノハナの別名とも言えますね。火中出産神話やかぐや姫物語がダヴィンチコードでもあります。




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