朱智ダブルクラブワーク② 〜 栄光の薔薇統治 〜


朱智ダブルクラブワークのダブルクラブとは朱智神社に祀られていますカニメさんから、蟹に、そして蟹のハサミにつなげたものです。

このワークを行う前は、蟹が日本の古代にこれほど深く関わっているものとは思いもしませんでした。

知識の掛け合いがすごくて私が言うのもなんですが皆マニアックだなと思います。

今まで全員女子のパターンが多かったのですが前回は男子もそこそこいてバランスがとれたのは良かったです。

男子が固まると時事の話題になるのは面白い現象ですよね。右脳と左脳の対比はよく語られますがHMTワークは女子の思考回路が圧倒的に強い気がします。

無茶振りがすごいです。


でもその無茶振りがつながっていきます。無理につながっているのか、あるいは元々つながっていたのか、分析するのは男性性思考回路ですが、そんなことどっちでもいいのが女性性思考回路です。

全身痛くてフラフラで寝てるのに笑いが込み上げてくる無茶振りというのはすごいです。

笑いはガン細胞をも消滅させると言われますが、以前にも放射性物質から身を守るということで、笑いと酵母に触れました。

アマテラス大御神が天岩戸から出てくるきっかけを作ったのが八百万神々の笑い、アメノウズメが肌を晒して踊ったのがその笑いの源とされていますが、本当はアメノウズメの無茶振りだったんじゃないでしょうかね。先日もギターを持って参戦しましたが、あまりにも寒いためUSAマスターKくんに弾いてもらえませんでした。踊り子もいるのでやっていることは神話通り、、ただ神話になくてHMTにあるのは無茶振り。なので逆に神話に無茶振りを追加。。

酵母は皇母で、蟹は甲羅(高良)、ワーク前からなぜか高麗(高句麗)の話しが多かったですが、普賢寺のご住職さんに紹介頂きました周辺部紹介冊子には高麗寺がありました。皇・甲・高、私が追っていますコウは実は半分程が高句麗につながります。しかし、その根源を辿っていきますとコウノトリ・水鳥埴輪・誉田別・継体天皇・息長氏とつながっていきます。つまり、コウが乗ってくる前に古層があって高句麗山岳信仰によってその古層が蘇ったというのが私の見方です。兜(甲)の戴冠式、5月にワーク予定でございます。


神奈川県の平塚や二宮町あたりにも行きましたし、埼玉県の高麗関係も秩父との因果関係が強そうで、この南北ラインに神武天皇ヤマトタケル伝承が多いのは多くのことを暗示していますよね。

昨年、甲斐駒に行った時に感じたのもヤマトタケル。何年か前に酒折宮を調査した時にわからなかったことが甲斐駒訪問で一気に氷解したとどこかで書きました。

それと同じ宗教意識が京都山科の北、毘沙門天にもあります。

そして今、北のミサイルも問題になっています。高句麗は現在の北朝鮮の場所にあり、よく高句麗のことも語られます。

朝鮮半島南部が倭国の一部だった時代から地政学的に利権が衝突してきた大和と高句麗。むしろその渡来を寛大に受け容れた皇室に興味があります。



高句麗21代王の文シ明王がちょうど継体天皇の時代ですが、隅田八幡宮の人物画像鏡の一般的解釈が正しければ武寧王継体天皇の長寿を祝った後に武寧王百済高句麗の水谷城を落としたことになりますので継体天皇朝鮮半島に出兵していた可能性は高いですよね。

日本書記では継体天皇の即位は507年3月3日、耳の日でひな祭り、HMTのメンバーが宗女トヨではないかと言っていましたが時代は違ってもまんざらではなくピンク石のことと継体天皇が息長氏一族だとする説が濃厚であることを考えると継体天皇神功皇后三韓征伐=武寧王を助けた朝鮮出兵という見方もできなくはないですよね。つまりヲホド王は女性!ホトは女性器でもあり、炉も意味しています。

何年か前の春分の日秩父宝登山(ほどさん)神社に伺いました。女神+火というイメージ何度も出てくるのでヲホド=神功皇后ならぴったりです。


503年は日本書記では武烈天皇の時代とされていますが前述したように中国南北両朝にサクホウし安定した軍事力を誇っていた高句麗に、南の小国・百済が太刀打ちするためにはそのバックに安定した倭国という隠喩が隠されており、日本書記の武烈天皇変態説は明らかにおかしいと思います。

隅田八幡宮の人物画像鏡がなかったとしても503年に百済高句麗の水谷城を落城させたことと高句麗が507年に百済漢城を落せなかった裏側には安定した倭国の軍事力というものがあったと思います。

これは継体天皇ワークの時に書きました巨大構造船の話にもつながります。

継体天皇の即位が507年になっているのは朝鮮半島情勢に対応して継体天皇が一時、福井に都を置いていた事実を隠すためではないかと思います。

ひとつの可能性として、継体天皇百済パトロンでありながら百済高句麗講和条約も締結させるような政治力を持っていたのではないかと思います。つまり継体天皇騎馬民族衣装は西アジア原産であり、当時は東アジアのそれよりも優れており(ということは軍事力においても長けている)、高句麗をコントロールする余裕すらあったのではないかと思います。

だからこそ藤原鎌足継体天皇陵近くに墓を設けたのではないでしょうか。圧倒的な戦力で大勝するはずだった白村江戦。

内臣(軍事最高司令官)に任命されながら白村江に勝利することができなかった鎌足の失望感は相当のものであったのではないかと思います。継体天皇即位から160年後の出来事。

今で言うとちょうど私たちが幕末を見るような感覚です。継体天皇の栄光は当然知っていたでしょう。鎌足死後突如として唐式国家構造が採用され始め、祈りの祓戸祭祀も終焉。本格的な中国式の“軍事力による中央集権”が始まりました。蝦夷はその中央集権思想から生まれた差別用語

古墳時代末期まで安定した政権を築いていた国に突如として土蜘蛛という被差別民族が出現。明らかにおかしいでしょう。

つまり、土蜘蛛と呼ばれた人たちこそ継体天皇の薔薇統治を支持し、ワカタケル大王を補佐していた各地の豪族であった可能性が高い。だからこそ抵抗が激しい。皆、栄光の薔薇統治がバラバラになることを受け容れなかったはず。


継体天皇時代の50年ほど前の時代のものとされる熊本江田船山古墳から出土の鉄剣と埼玉稲荷山古墳から出土の鉄剣には同じワカタケル大王と思われる名が刻まれており、江田船山古墳の鉄剣に限っては、片面にと馬、もう片面には魚と鳥があしらわれているのです。

これは明らかに今城塚古墳のピンク石、そして船モチーフ、水鳥埴輪、イクトゥスの装飾品、茨(薔薇)とつながっています。

そして継体天皇の出自に福井を持ち出さなければならなかったのは畿内の3倍の古墳量を誇る北関東の圧倒的な軍事力を掌握しているということを広く示さなければならなかったという隠喩があります。

足利尊氏新田義貞の行動様式を考えれば、だいたい想像がつくのではないでしょうか。飛行機ができるまでの軍事力は地形に依存しているので古墳時代も戦国時代も状況はそう変わらないと思います。

結論は倭王武継体天皇の連続性は確実に認められ、古墳時代末期の大和はかなり安定していたのではないかということです。それを可能足らしめるのは高速の巨大構造船です。船を動かすのは風。そして息長氏は『風』。

沖に長く(早く)至ることを可能足らしめる女神こそ神風でありオキナガタラシヒメ、宗像三女神と言っても良いと思います。


日本人の性質から言って北関東と九州を畿内でコントロールする場合、それが武力統治であった可能性は低いです。今城塚古墳から祈る巫女埴輪や力士埴輪が出てきていることからもそれは伺えます。

つまり、これら全てのことから推察できる継体天皇を含む古墳時代末期の古代大和国際戦略は、愛の薔薇統治と巨大軍事力。無茶振りのような気もしますが、祝島がハート型であることを考えれば磐井の乱もなかったのではないかと思います。


祝島仲哀天皇の頃からの国家祈願所ですから(その目の前に原発を建設しようとしていた人がいたのには驚きを隠せません)現代で言うところの《愛》に近い価値観で古代大和が連合していた可能性も非常に高いです。

だからこそ多神教原始キリスト教がローマで国教化するのに伴って迫害されたネストリウス派などの夷教も深く理解し、受容することができたのだと思います。(この他にもゾロアスター教マニ教ミトラ教など日本に根付いている夷教は多いです)

言ってみれば共和制ローマの理想的姿がはるか東方の古代大和で実現されていたわけであり、その萌芽は魏史倭人伝の“卑弥呼共立”の文言にも見てとれるのです。共和制と巨大構造船の軍事力が黒潮ルートに依る地中海原産のものであったからこそ古代大和は中国に対抗し続けることができたのです。対抗することが目的ではありません。柔道のように何事にも屈しないことが目標なのです。


蘇れフェニキアフェニックス!


ナンクン(南宮)の南方刀美!


そして日はまた昇る。。