星田ミルキーウェイ七夕ワーク② 〜 星の系譜 〜
だいぶん間が空いてしまって申し訳ありません。
あまりゆっくりPCの前に座る時間もなく、携帯UPもままならない状況となっています笑
星田妙見宮は全国的に地名度はかなり低いですが、行って見ますとかなりしっかりとした境内と風格のある歴史でした。
宣伝方法と整備をもう少し行えば、全国区に昇格できるほど素晴らしい聖域です。ただ、素朴っぽさがたまらなく好きという方は、「そのままでいい」と言うのかもしれませんね。
冊子を頂きまして、今日やっと読ませて頂きました。
785年。桓武天皇が長岡京遷都達成の神恩感謝として、翌年に交野が原の柏原で、歴代天皇で初めて郊天(北辰)祭祀を行います。
<星田妙見宮のお話しより>
しかし、796年には北辰祭自体が禁止されています。これも桓武天皇の治世です。
また天武天皇流が断絶し天智天皇流に皇統が戻ったこともあって、当時、秦氏が開拓していたものの、ほとんど未開の山城国への遷都を行う。初め延暦3年(784年)に長岡京を造営するが、天災や後述する近親者の不幸・祟りが起こり、その原因を天皇の徳がなく天子の資格がない事にあると民衆に判断されるのを恐れて、僅か10年後の同13年(794年)気学における四神相応の土地相より長岡京から艮方位(東北)に当たる場所の平安京へ改めて遷都した。wikipedia:桓武天皇
冊子の内容は少し微妙なところもありますが、現段階で2つをすり合わせてみますと、長岡京造営あたりまでは星信仰が盛んでしたが、その後祟りが頻発し、平安京への遷都と共にそれらが捨てられはじめ、道教+星信仰が仏教に隠された星信仰へと転換されていったのだと思われます。
その転換点にある星田妙見宮の文化は、とても興味深いです。
前回書いたように星田妙見宮あたりの文化は秩父のそれと似ていますが、少し違いもあります。秩父のほうが『オリエントから直接仕入れた』という匂いが強いです。星田はその上に朝鮮半島の星信仰が強く上書きされているような印象を受けました。
秩父近くにも渡来系氏族の痕跡が多数ありますが、星信仰が知性を集める集積路みたいな感じになっていて、その根源的なものは、かなり古くまで遡ることができる日本的なものではないかと思います。
つまり、東アジアの星信仰が、星田や秩父を見出したのではなく、石器時代や縄文時代の日本人に既に見出されていた星田や秩父に東アジアやオリエントの星信仰が吸い寄せられたということです。
以前にも書きましたが”長岡”は秦氏の言い換えなので、長岡京の件で秦氏が勢力を失っていった可能性も高いということになります。
しかし、結局は平安京も北極星信仰を持っていた菅原道真に徹底的に祟られるので、ほとんどこの国の根源的な祭祀とは月星信仰ではなかったかということになるかと思います。
また物部氏は日の氏族。なぜこれが”水(月)”を求めたかについては以前、何度かレポートしました。また余力があれば接続します。