禾ヘン(のぎへん)と聖帝十字

昨日から大地の裂けがひどくなっていて、メッセージ受信非常に濃くなっていますね。私の頭の中は戸隠十字でいっぱいです。暗闇が十字に裂けてそこから光の十字が輝き始めているといった感じでしょうか。

昨年、トキとまりコウあらわる記事で書いた感覚とつながるものです。時のクロス結構濃いです。南宮のエビスさんが笑うと何が起こるかについては書きませんが、花咲かじいさんインパクト、来月の白髭ワークに向けて濃いです。

セッションのデッサンをしていたら、またしても【草の文明】の深いところへ。一部公開の了承を得ているので少し言及させて頂きますと、十字トーテムにススキのような穂先の長い草をクロスさせて頂点に大根のようなものをシンボライズしています。全体で【禾ヘン(のぎへん)】、これおそらく豊穣の女神を祝う時に祀っていたもの。サタンとして封じられた豊穣神wikipedia:サートゥルヌス、クリスマスの起源とも言われています。サタンとサートゥルヌスは綴りが違うとされますが、サートゥルヌスの没落とサタンの掲揚を見れば両者には明らかな宗教的関係があります。

禾ヘンを調べますと祓戸の祓いも禾ヘンで書くパターンもあったらしく秡川(はらいかわ)先生(稲と雑草と白鳥と人間と)明治期の歴史改竄はかなり深い部分にまで及んでいるのがわかります。しかし、稲荷神社の神官が祭壇を嫌ったというのはかなり面白いです。確かに私の何枚かのセッションデッサンでも草の文明と生贄というのは接点があまりないです。と、するならばその当時、諏訪の文化はどういう位置づけだったのかが気になります。

禾ヘンが稲穂を意味することから稲荷がそれと関わるはものすごくわかるのですが、稲荷を祀っていた秦氏との接点が異様に気になります。秦にも禾ヘンが入っていますし、実はこれ渡来人ではないグループもいたんではないかと思います。ほとんどの場合、大秦寺のイメージがついてきますが、禾から入っていくとその根源的なルーツがもっと古いところにあることがわかります。カヤノヒメやヒコイマス、ナガスネヒコニギハヤヒとも関わっていそうです。

草の文明、アシの文明、カヤノヒメの文明、そしてそれに纏わるナガスネヒコの文明。アシに関してwikipedia:濱宮を発見。カカシから縣へと入っていって濱宮へ。ここがアシ神様と呼ばれる由縁はやはり葦ではないでしょうか。名草は草。

琴ノ浦は毛見崎の付け根から現海南市側に広がっていた浜で、対岸の冷水浦(しみずうら)に向かって1丈程(およそ3メートル)の高さの大岩が並び、この岩に波が触れて琴の音のような響きをたてていたために「琴ノ浦」と称せられたといい、また日前宮の両大神が初めて鎮座した浜であるので、汚穢不浄の者を近づけず、もし禁を破れば祟りがあったというが(同書)、現在は埋め立てられて住友金属の工場と関西電力発電所が並び建ち、かつての面影を偲ぶ事も不可能である。 wikipedia:濱宮

昨日書きました大阪豊中を中心とする聖帝十字陵について。

西宮は斎宮記事を書いてそれを調査するために神戸に来たということは以前から書いていますが、斎宮というのは日本の古代にとって重要です。伊勢では斎宮ですが賀茂では斎院。先日ワークで訪れた場所は西院。京都では西の白虎となります。

聖帝十字では西宮がこの西院にあたります。ここに紅の夕日大神を祀る。これがニギハヤヒナガスネヒコからの伝統。

戦国時代の三好の勢力はこのナガスネヒコの勢力分布図と重なるでしょう。地形はそれほど変わりませんから、倭国大乱時と戦国時代の権力の勢力判図というのはほぼ同じでしょう。地政学的に見て、淡路島周辺を抑えるものは日本全体を統治することができます。

豊臣秀吉徳島県wikipedia:白地城を攻略することによって天下統一を成し遂げました。逆に織田信長はそこを抑えることができなかったから藤原氏秦氏内紛で亡くなりました。白地城は徳島県三好市にあります。

白地周辺は四国の十字路と言われており、山の頂に立つと瀬戸内/太平洋/大阪湾/九州まで見渡すことができます。帆船戦争の時代にそれがいかに軍事的に大きな意味を持っていたかについては言うに及ばないことです。この【四と十字】の戦略と統治システムがナガスネヒコの聖帝十字と呼べるものに関わっていたことも容易に導き出せるのかもしれません。

〜☆引用と著作権について☆〜
出版物の著者の方は、引用元(著者/ブログ名/記事名)をご明記下さい。当ブログ記載の事柄は引用以外は全てオリジナルですので、孫引きなどもご遠慮下さい。また当ブログの内容を引用して古代史ワークショップを開催したり、メールマガジンで流用するなどの行為もおやめください。個人の方については通常の引用で結構でございます。ご自由にどうぞ。