Trust
一番大切なものを失って
国へのTrustを思い出した
自分にとって何が大切だろうか
男というものはマクロへのTrustがなければ生きていけない生き物だ
家庭という経済最小単位のミクロだけをTrustして社会が平和だったためしはない
社会批判だけしても”心の平安”は訪れない。
それと同様に
”心の平安”が平和を導くというのも偽善である。
現在、日本に存在する平和に対する2つのアプローチはどちらも間違っている。
それは、【現在が平和とは全く逆のベクトルに進んでいる】ことで証明されている。
多くの人は、自分の幸福が【家庭】の中に存在すると夢見るが、社会が不安定であれば当然、家庭も不安定になる。男は社会の不安定を改善するために働き、女は幸福を家庭に独善的に閉じ込めてしまうために働く(傾向がある)。このベクトルは時に衝突し、自分の本分をわきまえている者同士は、文字通り”一時的な”幸せを得る。
しかし、その”一時的な”幸せは、福島の原発事故を原因に離れ離れになってしまった男女の問題の根源的な解決方法にはならない。つまり、どんな困難でも乗り越えると誓った誓約が嘘になるのである。
永遠の愛とは何か
当時の彼女と別れた後、自分自身に深く問うたテーマである。
そして、最初に手に取った哲学書がアランの幸福論である。24歳だったか。
今日また、それを自分の本棚で見つけ、読み返した。
つきあって別れるということを延々と繰り返すことに疲れたという心性は、とにかく同じことを繰り返すことが嫌いという性格に基づいている。しかし、社会問題に関しては同じことを繰り返し行っている。
むしろ、自分にとっての永遠の愛というのは、”社会”という概念に自生しているのだろうか。
男と女というものは、流動的なエネルギーの中で、どれだけ互いをTrustできるかということにかかっている。これはビジネスパートナーでもその他の様々な階層のパートナーでも同じことである。親密な男女のパートナーシップがその最も上位に位置し、細胞レベルで互いをシンクロさせる機会を与えられるというのは言うまでもないことである。
わりぃ、俺まだ女を信用できないんだ、あれ以来
それぞれがひとつの信じるものを”核”に互いにTrustする。従って、信じるものが違えばTrustが困難になるのである。信じあうためには、同じ理想や夢を持たなければならない。それが国家であったり、地域共同体であったり、家庭であったり、人間同士の関係性であったりする。
しょーがねーだろ、俺の心の作用なんだから
人は、Trustがなければ生きていけない生き物でもある。自分のTrustを他者に無理に信じ込ませようとするのは、【Control】である。【Control】をしようとすれば必ず【Control】の仕返しをされる。これは、この世の真理である。
他者に【自由】を与える者は、多くの【Gift】を得る。
俺は、Trustの種を交換し、手放されたことで【Trust】できる状態を得た。
今まで同じ時間を過ごしてくれた人には感謝したい。そしてそれがTrustに変化した今は、一緒に過ごした時間とともに貴重である。
これからどうするかはわからないが、2016年は私たち日本人にとって【世代交替】という意味において歴史的な転換点となる。
東日本大震災より5年。
私たちは、私たち自身がTrustできる社会を自分たちの手で作っていかなくてはならない。
他に一体、誰がやるというのだ。人任せにせず、自分たちでやるのだ。