LOGOSすらも資本主義化されていく両極の中で
我々は持てるものなのか
それとも
持たざるものなのか
3.11後に知らしめられたのは
政治に対する不信ではない。
日本人自身に対する行動力と思考力への不信である。
あたかも知性主義のような皮を被った反知性主義は
知性的な対応を迫られると、その本性を即座に顕した。
知性とは何か?
それは妥協でも諦めでも脅迫でも強制でもない。
問題を解決する手段である。
ではその問題とは一体なんであろうか?
我々の行動の主体が、極度に資本主義化された社会となったことである。
個人が不健全な資本主義へと組織化されるに至って
全体の責任は個人の責任へと転嫁された。
それにプロテストするものは
”お前もこの社会の一部でしかない”
と言われれば、そのディスクールに屈せざるを得ない状況が生み出されている。
だからこそ我々はアンチテーゼを唱えなくてはならないのである。
アンチテーゼとは、脱原発や反自民、あるいは反TPPなどの安っぽい反政府闘争のスローガンではない。
時代を超える哲学、次代を導く哲学なのだ。
世界中で植民地主義が選択され、私たちが防衛を試みなかったとすれば、我々日本人がどのような被支配を受けていたかを語る人は少ない。当時の日本人は現在の日本人よりも哲学的に優れていた。
その結果、我々再度、繁栄し、今こうして命をつないでいる。
決してアメリカのおかげなどではない。
それと同じようなステージに立つことこそが現在の私たちに課された使命である。この発言を以ってして、戦前への逆戻りを連想する人たちはあまりにも未熟ではあるまいか。
また、私たちは戦争に巻き込まれるのではないか、という怖れは何の解決も生まない。
私たちひとりひとりが、”上の言うことには逆らえない、世の中には仕方のないことはたくさんある”と日本的に考えることによって集団的知性は形成される。
そしてその逆らえなかった鬱憤を反政府闘争のエネルギーに転換していくことも非常に日本的と言える。
つまり、それらの構造そのものが日本社会の負の側面に対するカウンター的要素を持っており、それらは決して知性的ではないのである。
これらを冷静に客観視し、環境の制約を受けたタガを外していかなければ我々日本人はいつまで経っても、太平洋戦争の清算すらできない。
まず、私たちは、現在の課題が戦後、清算できなかった問題をも引き摺っていることにも気づかねばならない。親安倍が日本を破壊するのではなく、親安倍・反安倍という懐の浅い未成熟な単純構図化自体が日本を破滅に導くのである。
つまり、それを培養しているのは、自民党ではなく、我々ひとりひとりなのである。
安倍晋三がファシストであれば、それに反対するものたちもファシストである。
独裁主義に対抗するリバランスは、多角主義であり、それは安倍晋三の美しい国をも包含してしまうからこそ、多角と成り得るのである。
そのような哲学的境地をひとつひとつ積み上げていくことこそが、投票に行くことよりも具体的な政治行動となる。積み上げた哲学的境地は力を持つからである。