存在を存在せしめんとする真正社会起業 〜 鵜呑みの真実 〜

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国際個人間EPAが稼働するためには、このような真正社会起業があってもいい。

例えば、Dr.コトーが牧場を経営し、その利益で過疎地域の医療を賄ったり、間伐から国際的な木材商社へと成長した地域型企業が林間バス会社を経営したりする。

現在の社会起業は、”社会のために”という教義がひとつの最高神になっているが、そこをもう少し進め、採算の合わない社会事業を採算のとれる社会事業で埋め合わせるという段階に入っている。

資本主義社会体制下では、採算に合わないバス路線などは、徹底的に廃止され、すべてが≪合理・効率的≫の名のもとに精算された。しかし、そのような合理主義は、『地球にとっての最も合理的な選択は人間が存在しないことである』という究極的な合理主義を跳ね返すだけの哲学性は有していなかったのである。


われわれ人間が、もし、過疎地域とされる山間部に存在したという歴史が存在証明を提示するならば、われわれがその場所に存在し続けることが、最も合理的な選択肢となる。

つまり、消えゆく灯が人類・社会にとって有益かどうか、あるいは合理的かどうかを問う前に、存在そのものを存在せしめるために尽力することこそが最も合理的かつ論理的活動であるということである。


これはユーラシアの多くの遺物を残してきた日本古来の哲学的思考かもしれない。


例えば、これを原発に当てはめると、原発廃炉にしても発電所そのものの存在を捨てないという思考回路につながる。日本人が”たたら”を捨てなかったのはなぜだろうか?たたらに破壊の痕跡があるというような話を一度も聞いたことがない。

一方で、古来より、祈りの場においては日本人は祭器を破壊し、それを放置することをひとつの目的とした。モガリは人間が完全になくなったことを確認するための儀礼である。


存在そのものに魂が宿っているという考え方は、存在に対する畏怖でもある。魂が宿っていなければないがしろにしていいのかといえばそうでもない。


太陽の光を浴びて白くなった流木でさえ、古の日本では九十九神となった。

自分の存在にすら敬意を払わない・払えない日本人が『日本人です』と言ったところであまり説得力がない。自分の欲望にのみ忠実になる強欲資本主義なら、その存在はそもそも日本列島に由来するものでないことは明らかである。


資本主義を考える上でもこのような視点は必要である。


社会起業はひとつの段階であり、ゴールではない。われわれのゴールは、1万有余年連綿と受け継がれてきた縄文哲学の具現化である。論理的思考を持つものならば誰もが最終的に行き着く場所である。”われわれとはいったいなにものであるのか?”


それを問わない人間はそもそも存在する意味がないという見方もできる。


なぜならば、人間が他生物と徹底的に異なるひとつの点は【問う】ことであるからである。



【問う】が、ない場合そこには【鵜呑み】が存在する。つまり鵜呑みをするのは鳥であり、人間ではないのである。





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