文珠菩薩の知恵
次回ワーク、念願の国常立(国と子達)で高速増殖炉を迎え撃つ。
真の高速増殖炉は、子供たち。
我々は何と戦っているのか?デモに参加した哲学的な人たちが問うテーゼ。
11年前に渋谷アフガン戦争デモに参加した直後に今の活動を始めました。デモの無力さを知った。悔しくてしょうがなかった。
あれから11年、何かが変わったわけではない。私の中の“変えていくため”の思考と戦略が成熟した。毎晩考え、そしてそれにつながる行動だけをしている。普通の人が理解できないのも無理はない。そもそも出発点が違う。
何のための“生”か、誰がための“命”か、
何が正しいか、の問題ではなく、何を最優先に考えるかの問題。
エネルギーを最優先にすれば原発は存続する。平常時の命を最優先にすれば原発は存続しない。非常(戦争)時の命を最優先すれば原発は存続する。未来を最優先にすれば原発も子供たちも選択肢として浮かびあがる。
現象の捉え方によって道は幾通りもある。それをひとつに絞るという考え方自体が民主主義的手続きから逸脱している。つまり、思想信条の自由を侵犯しているのです。
ではどうすれば?という哲学的解は、国家として何を最優先するのかの合意形成を行うこと。
私たちが迎え撃つのは自分たち自身の“甘さ”。仲間と共に築き上げていく民主主義・政治的方向性・命の大切さを前面に押し出す活動。誰かがやってくれるのではない自分たちが創造するのです。
国家として何が最優先か?を考えた時、当然、命と子供たちとする一般市民レベルの思考階層と国防を考えるテクノクラートの思考階層には大きな開きがある。
男女間の問題もそうですが思考階層の開きは解決策が一向に見つからないという欠点があります。
革命とは、その思考階層を強制的に市民レベルに下げさせることであり、ファシズムとはその思考階層をテクノクラート側の上層階層だけに絞ることでもある。そういうことを現実的選択肢として理解しようとしているか、そうでないか、本気であれば何を選択するか、
ギリシャの働きたくない・働けない一般市民の人たちが、政府から生活費をせびる暴動を起こしていました。日本から見れば“この人たちは一体何がしたいのか?”と感じた方も多かったかもしれませんが、日本のデモも階層レベルだけを見ればそれと大差ないのです。
果たしてそういうことに気付く人たちがデモの中からどれくらい出てくるかが、この国の未来を決定します。
坂本竜馬が尊王攘夷と公武合体派の喧嘩を無意味な喧嘩と呼んだ理由を考えよう。何のための歴史か?大事なのは国の未来だ。
茶碗を投げつけても未来は変わらない。
その怒りがどこから出て来て、どうすればその怒りを光りに変えられるかを順序だてて説明すること、そしてその哲学的テーマを理解する裾野が必要なのです。
戦後失われた民主主義が少しずつ戻ってきている最中、自分たちが生きている社会、自分たちで責任を持ち、自分たちで創造しよう!
戦前以前の人たちが普通に行っていたように。