テルマエ・ロマエ
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wikipedia:テルマエ・ロマエを観に行ってきたのですが、抱腹絶倒で腹筋が筋肉痛です。
笑いのセンスもさることながら比較文化論のメスを入れながら、テルマエ(浴場)という共通項で西洋と東洋の垣根を切り崩していくのは芸術作品としても一級品だと感じました。
皮肉にもテルマエの文化は古代ローマがキリスト教を国教化していったことで失われていきましたが、皇帝の神格化のどこに問題があったのか、そういうところにもあの笑いで迫ることができたら最高だと思いました。
【日本人の中に眠る原始キリスト教】記事でも書きましたように、ディオクレティアヌス帝の頃は下記のように皇帝とキリスト教徒が対立していました。ちょうど日本では卑弥呼の時代です。
ただ、やはり距離がありますので帝政統治が日本に輸入されるまでには時間がかかり、魏志倭人伝にも記載されていますように”(卑弥呼)共立”の文字は、当時の邪馬台国統治機構が共和制ローマと同じものであったことが伺えます。
かなり複雑な部分は、ポエニ戦争で敗れたフェニキア人たちが大挙として渡来し、民主主義色の強い日本の縄文と結合することによって、共和制ローマの統治思想とも押し問答をした挙句に徐々に受け入れていったとする痕跡は、シチリア島付近では見ることができなかった都市国家ポリスと国家を持たないフェニキアとの”涙もの”の融合であると思います。
そもそもフェニキアは、シュメールメソポタミアバビロニアの文化を色濃く受け継いでおり、シュメール人は黒髪・黒瞳・低身長の縄文人でしたから、レバノン杉の船に乗って日本にやってきた彼らが見た縄文人の姿と文化は、バビロニアを彷彿させるものであったと思います。
ディオクレティアヌス治世期は政府・軍内部のキリスト教徒が増加、治世を通じて融和的政策を採っていた皇帝も、その狂信性や軍務放棄、官吏・国教等統治への反抗に警戒感を抱き、303年キリスト教徒に対する令を発した。強制的な改宗を迫る等々キリスト教徒への抑圧が行われ、概ね寛容な処置に留まったものの、国家に対し公然と反抗した一部急進派が処刑された。その数はローマ全土で数千人を数えたという。また、2度キリスト教徒による宮殿放火が企てられている。キリスト教史を編纂する側は「大迫害」と呼ぶ。
wikipedia:ディオクレティアヌス
ちなみにテルマエ・ディオクレティアヌスは、wikipedia:ディオクレティアヌス浴場になります。
映画内では蛮族とされていたドナウ川北岸の反乱軍ですが、彼らは基本、ケルトなので内心「頑張れ」と応援してしまいました。
カエサルのガリア征伐から100年とか150年後の古代ヨーロッパ、スイスあたりの山脈でかなり押し戻されたりしたみたいです。
塩野七生さんの説によれば、ケルト人への懐柔政策、かなり功を奏したらしく、ひょっとしたら本気で、テルマエがケルトを懐柔させたりしていたら笑えますよね。
ただケルト人は、ローマ人の首を狩って自分の馬にぶら下げるのを名誉としていたようなので、それと温泉というのはもろ織田信長の髑髏酒の領域になってきますので、あまり芸術的とは言えなくなってきます。
どちらかといえば、明智光秀の民衆から慕われた美談、そしてアーサー王の伝説などが好みです。
古代ローマの支配限界地域がブリテン島の南部までだったということがスコットランドの悲劇を生みますが、アイリッシュ海が守られたので、よかったと思います。
古代大和で喩えると筑波山の向こうまでは実効支配することができなかったことに似ています。カガセオ神がなぜ常陸に眠っているのか、色んなことを物語っています。常陸風土記ではヤマトタケルとオトタチバナヒメは再会さえしています。
東京湾に身を投げたのは一体誰だったのか、という話になります。そういえば三浦半島の先端にオトタチバナ巡礼に行ってた時の写真が最近出てきたのでどこかでリンクさせて頂きたいと思います。
日本が東方のアナトリコンとして【照る前】になるには、やはり「笑い」が不可欠であると思います。アマテラスが岩戸から出て来る【照る前】にはウズメの無茶振りがあったので、それを可能にするためには”酒とダンス”の♪ええじゃないか♪も不可欠であると感じます。
ロマエは【口前(くちまえ)】に変換可能なので、はじめに言葉ありきの一言主。言葉の琴でもあります。琴線の鳴る”酒と笑いとダンス”、これが現代日本人にとっての【照る前・口前】であると思います。
枠を外して皆で、おーら wikipedia:シエスタ