京都スパーク 〜 犠牲と脱皮 〜
朝からダウンです。
文章はなんとか書けるのですが、リーディング等できませんので、セッションお待たせしている方々、申し訳ありませんが、もう少々お待ちください。
今回は大丈夫かなと思いましたが重度の“石アタリ”的な症状。
京都南の守護・城南宮で社殿が亀岡のほうを向いていたので、宮司さんに聞いてみますと『たぶん意味はないでしょう』とのこと。
しかし、祇園の事故や茨木の事故も考えるとどうしても韻を踏んでいるとしか考えられない。
できればそういう事故を食い止めるために巡礼があるはずなのですが、毎回あと一歩、半音ズレているような感じ。
私たちだけではとても処理できない。カニレジェンド南斗の踊りKOさんとわたしが前夜に悪夢にうなされてワーク突入。
『早く目覚めて、行動を起こせよ』と地底のスサノオ。
その不甲斐ない大人たちの責任をとしはもゆかぬ子供達がとらされているという現実。
福島の原発事故と構造は変わらない。
機械や病気や法律のせいにするが根源的な問題はただひとつ。
日本人がひとつの民族として、社会を変革していくという意識を持ち、その変革を可能たらしめる行動を今日、できたかどうかだけであります。
“かわいそうだ”、“無免許は悪い”と、人を責め、無意味なメランコリーに浸る暇があれば、変革できなかった今日の自分を懺悔し、明日の変革につなげよう。
同じような犠牲を食い止めるために必要なことが“社会変革”のみであるということは論理的思考があればすぐに理解できます。
メランコリーや同情だけでは世の中は変わらない。具体的行動とその行動を時代精神に影響を与えるレベルに洗練していく思想的境地、それらが必要になってきます。
京都スパークは当分、止まない。
これ以上、子供達を犠牲にするのはやめよう、言い訳はやめて動こう大人たち。