西国無双の侍大将と瀬戸内ジャンヌダルク

「西国無双の侍大将」と呼ばれた陶晴賢を取り巻くドラマというのは、面白いものがあります。

1543年(天文12年)6月、2度の敗北に業を煮やした大内義隆は、陶隆房の水軍を河野氏の勢力域に派遣、瀬戸内海の覇権の確立を目論んだ。河野氏とその一門は全力で迎え撃つが、鶴姫の右腕で恋人とも言われる越智安成も討死する。鶴姫は残存の兵力を集結させて最後の反撃を行い不意を突かれた大内軍は壊走し、鶴姫らは勝利を収めた。

しかし鶴姫はこの戦の後に兄や恋人を想い、18歳で入水自殺したと伝えられている(鶴姫伝説)。

辞世の句は「わが恋は 三島の浦の うつせ貝 むなしくなりて 名をぞわづらふ」wikipedia:鶴姫 (大三島)

陶晴賢が22歳、鶴姫が18歳、越智安成もおそらく20歳前後だと思います。

有名な鶴姫伝説、、陶晴賢の襲撃によって起こっています。
この鶴姫が亡くなった年に徳川家康が生まれているというのも何の因果でしょうか。種子島には鉄砲伝来。


その10年後くらいに陶晴賢は、宗像で事件を起こしています。

晴賢は大内氏内部の統制という目的もあって徹底した軍備強化を行なった。北九州の宗像地方を影響下に置くため、宗像氏貞を宗像に送り込み、山田事件を指示したともされている。しかし、この晴賢の政策に反発する傘下の領主らも少なくなかった。wikipedia:陶晴賢

35歳で亡くなるのですが辞世の句


「何を惜しみ 何を恨みん 元よりも この有様に 定まれる身に」


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