拍手という金科玉条

いつもご訪問頂きましてありがとうございます。ご返信が遅くなっている方は申し訳ありません。来週前半あたりまで少し立て込んでいます。

怒るときは怒る、泣くときは泣く、楽しむときは楽しむ、、未消化な感情を溜め込まないためには、感じたその場で解放するのが一番良いです。ただそれは誰にとってもなかなか難しいものです。

感情に捉われるという現象は溜め込まれた未消化な感情が爆発することによって起こります。常に自分の内側と向き合っていれば、感情の蓄積は少なくて済みます。

表現できない未消化な感情を持っていたとしても本心を打ち明けられて話し合える場がどこかにあれば、その人はそれだけで救われます。そういう場が戦後の日本社会では徐々に少なくなってきました。マイホームの間に空き地がなくなることによって人々の間にも精神的空き地が喪失されました。空き地というのはブレーキでいう”遊び”の部分です。”遊び”がなければブレーキは危険な存在。人間だってそうです。しかし逆に”遊び”だけだとブレーキそのものの意味がなくなります。このように<存在>が最大限に活かされる分岐点というのは常に中間点にあります。

これが岐神の本質です。男性性と女性性の統合・金科玉条・金烏玉兎、金の玉、金比羅、ヒラヒラ比良山、平ら、平清盛、弥山、火と水の十合、太陽神復活、陰陽道、太陽(金星)と月の相克、、、

あらゆる言葉が嘘に感じていまう時があります。浄土のみを語ることが人を幸福に導くのか、現実を説くことが人を幸福に導くのかは難しい選択です。語らないという選択肢もあります。持てるものには義務があるという哲学もあります。そのどれもに光があり、そのどれもに陰があるでしょう。

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