自分が自分であるために 〜 明石インナーブリッジ 〜

なぜかすっきりしないので尾崎豊を聞いていたら、今日、自分に尾崎を教えてくれた友人とフェイスブックでばったり会ったことを思い出したとたんに『豊』がトヨであることにも気づきました。

だいぶ前から尾崎ファンクラブをやっていて命日に海岸で皆でアコギで熱唱するという企画をやっています。昨年の動画を見せてもらったんですが、真っ暗ですよ^^;夜の海ですから、、、私は昨年行けてなかったのですが今年もやると思いますよ。チャレンジャーの方がいましたらご連絡ください。はんぱなく寒いそうです(笑)

その方々とカラオケ行くときは夜通し、尾崎メドレーになるのですが、最後は『卒業』、何からの卒業かと言いますとこの【戦後社会・戦後経済システム・戦後構造】からの卒業です。魂とかスピリチュアルとかことさら言わなくてもこういう人たちは大地からメッセージを受け取って実際に行動していますので、一緒にいて本当に心地よいです。

逆に、「メッセージをもらった」とか「私はマスターだ」とか言いながら、戦後構造に加担して原発を暗に支持している資本主義経済に参加している人たちと話をするとわけがわかりません。

何も見えてないし、何もやろうとはしていません。誰かのブログを見て自分もその先覚者であるかのように錯覚しているだけです。私の市民活動の友人は社会から激しい抵抗に合いながらもやむにやまれぬ正義への希求があるからこそそれを遂行しています。自分の生活を犠牲にして命を賭けてやっているのでそれはそれはもうほんとにすっきりしてますよ。どちらが正しいとか間違いだとかそんなのはどうでも良いのです。命を賭けて生きている人たちというのはどちら側でも格好良いのです。

一番話が合うな〜と感じたのが親戚にいます回天乗りだったおじさん。威圧感は全然ないですし、ただ優しい、だけど白黒はっきりしていて、とにかく明るい。うちのおじいちゃんもそんな感じです。最後に靖国に行きたいというので連れて行ってあげましたが、私たちが知っているような歴史ではないですよ、戦前史というのは。子供のころから人付き合いをろくにしていない人たちはメディアに全部だまされて教科書のことが真実だと思っているから困りものです。

自分の足で現地に訪れて話を聞けばすぐにわかることです。神社巡礼でも同じです。『日本書紀古事記』とは明らかに違いますからね。都市生活に浸かっている人たちはメディアにコントロールされて洗脳されていることにあまり気づいていないですし、震災以後は、国民が洗脳されたいと願うメディアが大手メディアからツイッターに摩り替わっただけで社会を創造していくのがどういうことかを理解している人たちは非常に少ないと思います。

社会を作るという意識が完全に欠落しているのではないかと思います。今やるべきことは民間主導の独自経済圏を作るしかないのですが、私がやっている新しい形の経済活動も理解できないがゆえに攻撃してきたり、批判してきたりしてきます。

だったらどういう社会がお望みなのでしょうね。おそらくそれが見つかっていないから怖いのだと思います。私は完全に見えていて5年ほど前から目が開いている方々とだけ協働していますから別に迷いとか躊躇とかはありません。

私は自分が優れているとか目が開かない人を見捨てたいとか思ってませんので、このような活動をさせてもらっています。私が考えていることが正しくてその他の考え方が間違っているとも思ってないですが、少なくとも次なる社会のビジョンをしっかりと持って、外に向かって公言し、そのための現実的行動を日々重ねている点においてだけ日本の誰にも負けないと思っています。

正しいとか間違いとかどうでもよくて、一番嫌いなのは回りくどいことです。土佐人の心性として敵と酒を酌み交すことも平気ですから、敵か味方かはっきりしてほしいとは思います。敵は哲学が違うから敵になるのであって人間が違うから敵になるわけではありません。哲学の戦いに命をかけるのが武士道であり、国家をかけるのが政治です。今では政治家が哲学を戦わせないので政治結社の意味を何も為さなくなっていますから私がここで”思想とは何か?エネルギーとは何か?古代史とは何か?”を展開しているわけでございます。

民主主義の前提というのは自分の考えをはっきりと述べることなので、煮えたか沸いたかよくわからないようなスタンスは法治国家を覆す違法行為になりかねないですよね。こういうことを女子に求めるのは過酷ですから、少なくとも男子は朝、目が覚めた時点で今日も命がある奇跡に歓喜し、天に感謝しなければいけないと思います。それが先祖崇拝の原点でしょう。私にとっては目が覚めるということ自体が毎朝鳥居を潜るような行為なので、神社の儀礼とかはっきり言ってどうでも良いと思っています。神道の精髄は”命”ですから、命の尊さをわかっていればパンツ一丁でお参りに行っても良いと思っています。そういえば地元にパンツ一丁でお参りに行く神社が確かありましたね。

敵を作らないことが愛や平和につながると思っている方々もいるかと思いますが、それは、<やらなければやられる>という世界で息をしたことがない人の幻想です。真の愛と平和というのは、敵を明確に敵と認識し、積極的にそれと話し合い融合することです。分離と融合は表裏一体でひとつですし、死と再生もひとつです。ただ無意味に敵視をするのは私が言いたいことと違う範疇のものです。違いを明確に認識しなければ融合の仕様がないですし、そもそもそれぞれの個性が発揮されないということを言いたいのです。自然界は分離と融合の連続で、しかも美しい!


こんな自分ですけれども、こうだからこそ社会に役立つことがあるだろうと思って生きています。私の場合はスピーカーが大きいので、知らないところで多分誰かにご迷惑をおかけしていると思いますので、その分誰かの役に立たないといけないと思っています。私が存在していることに対する罪滅ぼしではないですけれども、それがなければ単なるきちがい暴走機関車になるような気がします(笑)

誰にも自我がありますから、認められたい自分が存在します。軽視されることは誰にとっても嫌なことです。だからこそ人間関係は大事であり、積極的に認めてあげる愛というのは究極的に大切なものです。ことさら『愛』などという言葉を出さなくとも共鳴することは受容につながります。この共鳴こそがシンクロであり女神なのですよ。

この現象世界にとってもっとも重要なことは【手放すこと】です。【認められたい感・愛されたい感】が強い人は、これがなかなかできません。私もこのようなお仕事をさせて頂く中でその【手放すこと】をワークさせてもらっています。

まずは手放して共鳴してあげる、そうすると返ってきます。嫌だなと思う人にでも自我を手放して共鳴してあげる。そうすれば返ってきます。見返りを求めるわけではないけれども、それが習慣になればミカエルが返ってきます。マイコーが舞い込んできます。

人間にはメモリの限界があり、無限ループから抜け出し、自分の無限の可能性に気付く為には自分に意識的に【許可(パーミッション)】を出す必要があります。このような内部的な作業が真のスピリチュアルの作業であり、メッセージを受け取ったり随神道を歩むことはこの延長線上に存在しているだけに過ぎません。

まずはその女神理を知ることが大切なのです。自分が自分であるために。

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