明石クリスタルブリッジ② 〜 ギャハハ del sol 〜


人気ブログランキングへ ←← 一日一ぽち、いつもありがとうございます^^


『あの時こうしておけば良かった』とか『なんであんなことを言ったんだろう』とかはあまり有益でない感情系の流れです。

反省や懺悔というのは、人生の指針に対して深く自問していくものであって、日々移りゆく感情に捉われるのはあまり有益ではありません。

100%の自分の中で少なくとも30%くらいは嫌な自分や失敗する自分はあります。それを見ようとしないようにするのが<引き寄せの法則>や<偽の光の使者>ですが、真実の引き寄せとは、その30%を自分自身で完全にForgivenessすることです。


それが本当の光の拡大につながります。一般的に出回っている『スピリチュアルごっこ』では、自分が光になることによってネガティブなエネルギーを回避できると解かれますが、真実は全くの逆です。ネガティブを肯定することによって真の光は拡大するのです。ただしそのネガティブさは愚痴や文句という真正ネガティブではなくブレーキを真正に利かせるための遊びの部分のことです。これを<必要ネガティブ>と呼びます。

これを巡礼用語で言いますと”膿出し(うみだし)”と呼びます。<『スピリチュアルごっこ』の引き寄せ聖書>では、膿そのものが否定されますので、本来の免疫機能回復の作業が行われず不調和なエネルギーが体内に蓄積されていきます。


真実の自己肯定とは30%の闇を自分自身でForgivenessしてあげることです。そのことが他者の闇をもForgivenessすることにつながります。自分の闇をForgivenessすることができていない人は他者の闇もForgivenessすることができません。その結果、光の聖書を他者に押し付けようとします。これが宗教というものの構造です。


本来の女神性とは影を否定しません。神功皇后が影を写した場所を御影と呼びます。”見かけ倒し”という言葉がありますが、これは印象とは違うという意味です。つまり本質が思っていたものとは異なると感じてしまう現象です。これをさらに突き詰めると影の中にも光の本質が存在するということになります。もっとわかりやすく言いますと、光がなければ影(陰)はできない、陰あるところに必ず光あり!ということになります。”見かけ倒し”にならない為には、自分の影に光の本質がなければならないのです。


赦されているという安堵感/女神性の希求は、自分を赦しているという意識的なソウルパターンからしか発生しません。



難しい話はそれぐらいにするとして、上記の文章は2元論の世界でもあります。しかし必要な世界です。第三の道とは、その2つを知った上で否定も肯定も無視もしないスタンスの道です。それが【ギャハハ del Sol (太陽の道)】です。

参加者の中のおひとりがイカスリ神社のおせんべいを持ってきてくれましたが、何か深い意味があるような気がします。イカスリ神社のことは以前書きましたが、まだ訪問したことがありません。渡辺さん苗字の発祥の地ということで渡しの大神で大山祇だと推測されます。今回訪れたwikipedia:稲爪神社もワタシノ大神です。やはり秘密を明かしたいということでしょう。


開けゴマも話題になりましたが、開けイカとは言いません。でもゴマすりイカすりでつながります。イカは烏賊ではなく「如何ほどか」の如何と言われますが、数量や質量の疑問文にイカが使用されるきっかけになった出来事に興味がありますね。それがイカだった可能性も否定できず、ウカノミタマのウカとも響きが似ているので油断は禁物というところでしょうか。。


イカは怒るや以下を意味しているのでどちらといえばネガティブパターンが多いように思います。これはイカルガ封印と密接に関わっていると思われ、西の不浄を祓うという西巫が何らかの形で朝廷にとっては問題視された時期があったのではないかと思います。


それに比べてウカは合格することをウカルと言ったり、受けるというのも豊穣を意味し、”うげる”というのは調子が良いことを意味する方言で、ウキウキは楽しいことを意味します。これを考えるとイキイキもこの部類ですね。ウキは猿で、イキは壱岐というのも深いですね。これ両方先住民族系ですから。ちなみにウィッキーさんはワンポイント英会話ですね。ワンポイントの”キ”を抜くとウイ(We)になりますね。Weは我々ですから、猿とそれ以下が我々大和民族の原型ということになるということでしょうか。これはものすごいオチ(越智氏)ですね。


越智氏は日本で一番高い大山祇という山を用意しましたが、最も深いオチも用意していたはずです。「人生、山あり谷あり」ですから山には桃(珠)谷には龍、2つ合わせて竜樹というところになるでしょうか。


wikipedia:龍樹はやはり竜宮城に行っており

龍樹は、存在という現象も含めて、あらゆる現象はそれぞれの因果関係の上に成り立っていることを論証している。この因果関係を釈迦は「縁起」として説明している。さらに、因果関係によって現象が現れているのであるから、それ自身で存在するという「独立した不変の実体」(=自性)はないことを明かしている。これによって、すべての存在は無自性であり、「空」であると論証しているのである。龍樹の「空」はこのことから「無自性空」とも呼ばれる。wikipedia:龍樹

ご返信お待たせしている方々、申し訳ありません。特にセッション進行中の方は大変お待たせしております、ご返信書いておりますので少しお待ちくださいませ。

〜☆引用と著作権について☆〜
出版物の著者の方は、引用元(著者/ブログ名/記事名)をご明記下さい。当ブログ記載の事柄は引用以外は全てオリジナルですので、孫引きなどもご遠慮下さい。また当ブログの内容を引用して古代史ワークショップを開催したり、メールマガジンで流用するなどの行為もおやめください。個人の方については通常の引用で結構でございます。ご自由にどうぞ。