嵐山クリスタルパーミッション② 〜 HMT妄想伝 〜

kohya_hibiki+spirituality2012-02-06



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人はそれぞれ感情を持っていて個性があるようだけれども、同じ現象に対しては同じような反応を示します。

個々のケースは様々ですが、自分を軽視されて笑う人はいないですし、尊重されて怒る人はいません。この人間の感情ルールを超越するのが”笑い”です。

”場”によって様々ですが、軽視されると「おいしい」とされ、尊重されると「滑っている」とされます。この逆さのロジックを知っている人・感覚として養っている人はどんな状況においてもStrongです。ただこれを獲得するのが全てではありません。スピではそれを精神的に克己していくことを目的としています。

真我はwikipedia:アートマンですが、仏教とは<我>の認識において正反対の立場にあります。両者とも何を言いたいのかがわかりますが、真理はそのどちらでもないと思います。仏教は無我を悟りと解きますが、我は変幻自在であり、虚空にもなり、強い我にもなり得ます。その変化する現象を仏教は仏性として言い表しましたが、おそらくそれを我に言い換えなかったのはヴェーダとの宗教対立だけの問題であるので我の問題の本質はかなり深いところまで争いがあったということになります。


日ノ本国に入ってきていた聖音AUMを始めとする音の文明は、このヴェーダの宗教であり、おそらく松尾大社がこれに関わっており、単に松尾寺がクンピーラだからインドからヴェーダが入ってきているのは当然だとするような浅い問題ではないと考えます。


先住民族の古代祭祀の中に男性性と女性性を転換させるようなものがあり、そのことによって宗教意識を高めていたと私は捉えています。これはタントラや密教に引き継がれていますが、日本の古代におけるヒメ・ヒコ制もこれと密接に関わっていると感じます。

ヒメというのは音を秘める(乙姫)ことであり、『音』という字は日が立つと書きます。日ノ本国は太陽と音の文明であるので音や元旦の文字文化はこの時代を起源にしています。

その時代の記憶(あるいは血)が濃いため、その時代の聖地にいくと私の中のプラットフォームも転換していくのがわかります。おそらく真名井(愛の泉)とも深く関わっていると思います。


スピノザはCogito, ergo sumを「我は思惟しつつ存在する(Ego sum cogitans)」と解釈しています。wikipedia:我思う、ゆえに我あり


松尾大社の磐座に登拝している時にwikipedia:噂の刑事トミーとマツの話になりました。トミコと呼ばれるとトミーの人格が変わるのです。それが松尾大社の何かと私の中の何かと関わっています。磐座はwikipedia:ゴーレムにも十一面観音にも見えました。Mさんは亀に見えると言っていました。

旧約聖書』「創世記」の天地創造において、アダムもヤハウェによって土(ヘブライ語:アダマー)に鼻からルーアハを吹き込まれた事から、アダムもまたゴーレムであったのではないかと言われている。これが正しい説だとすれば、アダムこそが世界で最初に生まれたゴーレム(それも自我を持った)という事になる。wikipedia:ゴーレム

風(シ)を吹き込まれることによって息吹きが生まれ、芽吹きに変る。これがアダムとすれば、ヤマトタケルの像に非常に近いです。


人間には性としての本能が備わっていますから、人間は本来、異性の本能プラットフォームを理解することができません。女性は男性に常に温かく受け入れて欲しいという幻想を抱き、男性は女性に自分の哲学を受け入れ鼓舞し、誉めて欲しいと考えています。この両性の違いを受け入れているものこそ”金”なのではないかと思います。


『愛』は、一般的なかなりの部分において自分にないものを求めるwikipedia:アニマ的要素も持っています。こ〜して欲しい、あ〜して欲しい、こう言うべきだ、あ〜言うべきだ、などの支配は、自己の希望的観測のほぼアニマの世界です。しかしもっと次元の高い愛は、自由を与える愛、制限のない愛になるかと思います。

自分がそう感じていなくても、そう考えていなくても相手が欲するからこそ、それをやってあげる。この日本人独特の精神構造は元々人間に備わっていないものです。この<思いやりと察し>の文化を外したいがためにスピに入ってこられる方も多数います。


この金科玉条は日本人の大きな呪縛のひとつです。見返りを求めているわけではないけれども、循環しなければ失望する。これは神の世界でも同じ。だからこそ私たちは祭りによって神に感謝することが必要なのです。冒頭で書きましたように全ての人間がほぼ同じ感情反応を示すように物理的世界のあらゆるモノは、同じような感情反応を示します。神とは自然霊ですから、人間と同じ感情反応を示します。


<思いやりと察し>を嫌いな人たちは、心身が自動的に動いてしまう自分を嫌がっています。しかしそれを積極的に意志に被せれば強い力になります。常に私たちは片方の目で現実を見ていると思って頂くとわかりやすいかもしれません。常に自分が正しいと思っているのが普通です。しかし以前にも書いたように右足と左足が喧嘩していては前には進めません。右手が左手の行動様式を理解したときに初めて音(かしわで)が鳴ります。これが金です。神社で手を叩くことにはそういう意味があります。


トミコの話の続きですが、梅宮大社にトミオーという酒樽がありました。皆でむっちゃ盛り上がりましたが、この裏には天の川信仰が隠れているのではないかと今日思いました。それと同時にwikipedia:ダイダラボッチのメッセージも非常に濃いです。梅宮大社の”またげ石”は、ダイダラボッチ桂川を跨いでいたという伝説の名残りではないかと感じます。

つまり、トミコーと呼ばれたので彦星は中州の対岸・梅宮の地に怒って帰ってしまったということです。それをダイダラボッチが連れ戻しに行く。トミコはもちろんトミビコ(wikipedia:長髄彦)ですよ^^;ここまできたらどこまでも行っちゃいますよ。


トミコはおそらく女装していたと思います。松尾神の御前は男子禁制の掟があって皆がコ付けで名前を呼ばれるのですが、火のエネルギーが強い人は見破られて儀式に参加できない、そんな神事です。wikipedia:マツコ・デラックスさんも何か関係しているのではないかと思います。デラックスはダイダラボッチにつながりますしシンクロし過ぎていて怖いくらいです。

梅があって松がある、でも竹がない。実はそれがヤマトオグナの小倉山。ここにもトライアングル発見!



桂川 またいで金の かしわでを
打ったら出てきた 桃太郎

カツサンド 食べ損じるなよと 声響き
振り返れば 奴がいた


ライライライって出てきてましたが、嵐がライライライという曲を歌ってました!

ライライライは北京語でみんな集まれですって・・・まさにウズ(うずまさ)
やっぱり、このラインってことですね。

鳳来 イサライ 未来が到来

妄想伝にご参加くださった皆さん、ご覧頂いている皆さんありがとうございました。
皆でまさにウズを起こして参りましょう!



Enya "The Memory Of The Trees"

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