『Forgiveness』 と 『permission』
最近はセッションブレスやオーダーのブレス以外でも注文を受けてから作製している場合が多いので、ビーズパーティになります。今日はどうしても嵐山ワークに持っていきたい賀茂別雷ブレスも作っていました。
ブレスというよりは前々から作製したいと思っていたロザリオに引っ掛けるタイプのマスタライズブレスです。
表題の『Forgiveness』 と 『permission』は、スピの中では今まで”赦し”をForgivenessで言い換えてきましたが、嵐山ワークでpermissionを使用しているように、その部分もあるのかな、と深く考えた次第でした。
『Forgiveness』は無償の愛とリンクしていて、とにかくなんでも赦す、マリアさまのような感じです。一方で『permission』は、<許す/許さない>の選択があってそこにLOGOSの愛が宿ると『Forgiveness』に近い赦しを起こせるのではないかと思いました。こっちはLOGOSなのでキリストとか猿田彦、ミカエル、ヤマトタケルのようなエネルギーです。
”教育”における赦しとは明らかに『permission』ですよね。授業を聞かない生徒、ルールを破る生徒は『Forgiveness』されないからです。
この部分は結構深い部分であり、このことは教育とは別の場で『Forgiveness』が必要であるということが示されています。わかりきったことではありますが、ことさらに明文化して意識していく必要があると感じました。つまり、インナーチャイルドが完成される前に、こういった社会意識が社会から欠如しているのです。
本来は家庭がこの『Forgiveness』の場であるはずなのですが、資本主義の悪影響から『Forgiveness』できるほどの余裕が各家庭から消えようとしています。私のところはできているよ・・・などの個人的な問題を言っているのではなく、社会的構造の問題を今、述べています。
私にとっての『Forgiveness』はもちろん家庭もあったのですが、地域社会と親戚一同の影響力の方が大きかったと感じます。なので私は地域社会が壊れていくことに非常に大きな危機感を感じます。健全な地域社会があれば例え家庭が壊れても自然とそれは再生されていきますが、健全な家庭があっても必ずしも地域社会が構築されていくとは限らないからです。
むしろ高度に資本主義化された家庭群(ミニマムエコノミー)は、税金に寄生したり、ハゲタカファンドの潮流に組み込まれたり、グローバリズムの影の支配者ともなっていることを考えると、私たちの問題のほとんどが地域社会の再生に掛かっていると言っても過言ではないわけです。
その地域社会の再生は、神社の祭礼を再生し、それを重んじることであり、神道を復興することに他ならないんですね。だからこそHMT聖地巡礼、そして嵐山ワークなのでございます。
さらにはそのような社会学的なフィールドワークを社会起業に載せサブカルチャー化も同時に図っていく。これが私の【学(学問)動(実際的な行動)文(文化)】の行動規範です。
なんだか上手くまとまりましたので、今日はこのへんで。
The Morning Dew - Dancing With The Celts - Ardan
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