我(割れ)を忘れるほどの磯(五十) 〜 金が鳴るなりカヤナルミ 〜

なかなか忙しくて色々なことに手が回らないですが、高い理想にチャンネルを合わせて自分のできることをするというのはチャネリングの基本でもあります。高い理想で動く人が今、どういう目的のために動き、その行動をさらに深化させていくために、今どういう力を必要としているのかは、少しの意識の選択と集中で知ることができます。

自らが怖れず行動し、受容されることではなく自らが献身的に受容することを選択し、進んで灯りをともしていけばやがて収穫の時は訪れます。お百姓さんなら誰でも知っているプリンシプルです。

自らが種を蒔いた作物しか収穫することはできません。蒔いてもいない作物を収穫するのは代償が伴います。その代償を内において積極的に承認するのが教義を持った宗教組織です。私は根っからのリベラリスト自由主義者)なので代償を与え合う社会を支持することはできません。(以前、無償の愛との対比の中で代償という言葉を使いましたが、ここで意味する代償はその代償とは異なります)ひとりひとりが自立し、それぞれがそれぞれの個性を認め合い、高めあう社会しか望んでいません。

忙しいにはイソ【五十】の響きが入っています。桃【百】の半分です。つまり、豊穣【百】のちょうど半分である折り返し地点が我を忘れるほど忙しいのです。山と海を別ける磯(イソ)も、ひっきりなしに波が打ち寄せていますよね。我を忘れるほど忙しいのです。海幸彦が山幸彦を非難したり、山幸彦が海幸彦を非難したり、磯にいればはっきり言ってどうでも良いことです。そのどちらでもないことがわかります。権威/権力を批判することは正義の作法ですが、個人レベルの批判は非常に低レベルの猿蟹合戦と同じです。

伊勢の語源も磯なので、このような見方で見ると面白いものが見えてくるかと思います。昔から猿蟹合戦のような低レベルの争いは、常に存在し、その2元論を超越する第三の道が<五十(イソ)の鈴>であるwikipedia:五十鈴川によって神格化されていることにも目を向ける必要があるかと思います。神聖さや尊さとは何かを人任せにしないで本気で自分自身に問う必要があるでしょう。そうしなければ汚れた河を清浄な河に戻すことなど到底できません。

「随所作主 立処皆真」(随所に主となれば 立つところ皆真なり)「臨済禅」

あらゆることに主体的に取り組めば、全てが真実に変わる、という意味です。20代の頃、人生に迷い、その中で出会った珠玉の言葉です。私の禅語ベストファイブに入っています。

主体性は真理である wikipedia:セーレン・キェルケゴール

洋の東西を問わず同じことを言っています。私が思想的に洋の東西を超越できたのはこの2つの言葉によるところが大きいです。キルケゴールデンマーク教会という権威と戦い続けた渋い男です。つまり<権威=非主体性=無明>という公式が成立するわけです。<強いものから力を奪い、弱いものの代弁をし続けることこそが近代国家の矛盾を是正する(世の中を平らにする)唯一の方法である>という思想的境地に到達していなければ、権威を批判している者の意味がわからないと思います。それこそがwikipedia:無明なのです。

wikipedia:五十猛神イソタケル)が忙しくしていたのは、自分のために植林をしていたわけではなく、社会のために植林をしていたわけであり、当たり前のことではありますが、自分のためだけの幸福を追求すれば結局のところ真の幸福は訪れないということが暗示されています。

これは日本人にとっては至極当たり前のことであり、(私の専門分野ではありますが)wikipedia:経世論を遡っていけば、近江商人wikipedia:南学などの日本経済思想のルーツへと到達することができます。ここから現在の神社神道のベースを作ったwikipedia:山崎闇斎が輩出されているわけであり、経済分野においても宗教分野においても私たち日本人が取り戻していかなければならない大きな根っこがあるわけです。

南村梅軒は架空の人物なのでもう少し論理的な検証が必要でしょう。

これらのことが何につながっているかと言えば、原発の問題や官僚の問題、その他様々な日本における社会問題の根っこにつながっているのです。【自分さえよければ良い・自分の家族さえ幸福であれば良い】というような考え方が社会の末端にまで蔓延し、その恥ずかしい考え方を公共の電波を使って吹聴する人間まで出るような時代です。

自分が幸福になるために他を犠牲にするというのは、wikipedia:餓鬼wikipedia:畜生の生き方です。グローバリズム原発というのは、西洋経済思想の歪みによって生じた餓鬼畜生道の究極の形です。自分が自分自身に敗北していないか、常に内省し、改善していく必要があるでしょう。

甘い蜜に群がるだけの存在ならば、何も人間に生まれてくる必要はありません。カブト虫と同じです。人間に生まれてきたからには虫や動物に為せない事を成し遂げる必要があるのではないかと自分は感じます。人間がすべきことは、蜜がどこにあるかを分析し、ボリュームと位置を正確にはじき出し、いかに平等に公正に分配できるかを考え、実践することです。これは近代国家における富の分配にも関わる重要な考え方です。富は登美でもありますのでナガスネヒコですよね。それがナカトビでもあるので、すなわち瀬織津姫でもあるんですね。中庸の意識が一番大切です。

十(我/割れ)を忘れるほどの磯(五十)は10が五回やってくることによって起こります。五頭龍であり、牛頭天王であり、国津神ですよね。桃(百)の半分なので”中庸”が丁度良いということになります。真ん中・ストライク・素直が良い。真っ直ぐ立てるのは右足と左足があるからです。前に歩くことができるのは右足と左足が交互に前に出るからです。どちらが正しいわけでもありません。それに決着をつけようとすることだけが間違っていると思います。どちらでも良いのではないでしょうか。どちら一方が正しいわけではなくどちらも正しいのです。それが八百万の精神です。黄金も右近と左近の間から昇る中庸の精神です。だから五十鈴は金の鈴なのです。


仕事以外のことでご連絡くださる方もいますが、なかなかご返信できなくて申し訳ありません。公平性を保つためにどうしても有料セッションが優先されてしまいますので、お急ぎの方はそちらから改めましてご連絡くださると助かります。

それと批判的な意見をくださるのもとても有難いのですが、批判の場合はまず私が書いていることを一通りお読みになってからのご連絡をお願いします。ほとんどの場合が誤謬であり、未知な物に対する怖れと劣等感が怒りになって顕れてきていると感じます。人間には優劣はなく、役割があるだけです。今までとは違う未来が来るかもしれないという不安や怖れは、自分自身がその未来を見ることができていないことからやってきますので、外側の世界に原因があるわけではございません。その不安や怖れを外側の誰かや何かを責める事によって、あるいは愛されたいと願うことによって満たされようとしている間は、いつまで経っても希望という光(wikipedia:プロメーテウス)を手に入れることはできません。

自分の内側を見つめ、不安や怖れがあることを素直に認めることが全ての原点です。素直というのは、言うまでもないかもしれませんが「真っ直ぐ」が語源です。真っ直ぐは『杉』なので、各地で『杉』が信仰されているわけです。イソタケルであり、スサノオですよね。スナオとスサノオの響きは似てますね。wikipedia:蘇民将来譚でも素直な蘇民は助かってます。

これも言うまでもないかもしれませんが、「真っ直ぐ」の反対が「マガ(禍、曲)」であり、祓戸大神はそのために存在し、曲(まが)を直(なほ)に糺していくのが神道の基本理念になります。詳しくはwikipedia:直毘神などを参照してください。



阿部真央 モットー

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