痛み過ぎて 愛来たるらし 天香具山

wikipedia:香木の伝来は、推古天皇3年(595年)4月に淡路島に香木が漂着したことが始まりとされていますが、香にはもっと深い意味がありそうです。

香のコウは、神とも皇とも紅とも書きますしwikipedia:香合が「皇后」や「神々しい」と同じ音であるのは非常に深い隠喩があると思います。

香の字は、wikipedia:天香久山にも使用されており、wikipedia:カグツチや月とも密接な関係があるでしょう。

この時期に富士山が噴気活動中の火山として描かれていることから、科学論文に成立などが引用されることがある古典のひとつである。wikipedia:竹取物語

以上のことが私たちが失った赤の女神の文化です。賀茂のピラミッド山=コウ=神/皇=不死身/藤見/中飛び(中臣/トミナガスネヒコ)=噴火/煙=カグヅチ=羽衣

天香久山wikipedia:多武峰の峰の頂点ということを考えれば、藤原氏陰謀説というのはあらゆる点において論理が倒錯していると感じます。つまり、竹取物語が藤原治世の批判をしているというのであればかぐや姫という題材を用いるのは不適当であるということです。

藤原の藤は不二/不死身でもあり、不死身のフェニックスと関わっているのは当然のことであり、これが鳥の文明であるのは容易に想像がつきます。鳥の文明は天女や天の羽衣の隠喩でもありますので、藤原治世の批判をしたければ「鳥」とは対照的とされる「龍」の文化に重きを置いて物語が構築されるはずです。しかし、全くそうではないというのは、現代の歴史学の見方は完全に間違っているということになります。完全に論理が破綻しているのです。

竹取神事 - 神田の中央に設置された、「太一」と書かれたうちわのついた竹(いみだけ)を男が奪い合う。この竹の一片を船に祀れば豊漁となると伝えられるため、男たちは荒々しい奪い合いを繰り広げるwikipedia:磯部の御神田

「田」には十字が入っており、そこには土(泥)も存在します。これも十字です。太一に関しては、大にチョンで太・鯛・帯・胎!メデタイでも書きましたが、 少し1神教的色彩も濃いでしょう。

己の心と書いて「忌」、自らの心と書いて「息」。西洋のwikipedia:三位一体と何も関係がないと考えるほうが不自然です。西洋の三位一体の古層も父母子であったと言われていますので、これが日本の父母子三位一体ともシンクロしていたと思います。<>の部分が聖霊(風/息)になっていくのは西洋も日本も同じなのです。その<母>の部分が香(コウ)なのです。

しかし、問題は単純ではありません。古代大和では様々な文化が融合していますので根源的なものを探っていくには恐ろしく労力がいります。例えば、それは何の前知識もなく漫画喫茶に行って日本の漫画文化の先駆けとなった漫画本を探すのに似ています。wikipedia:手塚治虫さんの漫画に運良く辿りつければ根源的なものに辿りついたと感じるでしょう。それが古代大和におけるコウの女神信仰です。しかし、手塚治虫さんの漫画は戦後のストーリー漫画を代表しているだけに過ぎず、さらに根源的なものは明治時代あるいはそれ以前に遡ります。古代大和の女神信仰においては縄文のヴィーナス信仰がそのルーツを示しています。



Ne-Yo - I'm In Love

Ne-Yoは好きです。”I'm In Love” という表現はすごく詩的ですよね。愛の中に生きる、愛と合一する、愛の中に落ちる、、、などですかね。歌詞の中でも、 no tears 、no pain、no fight、no day、no night としきりに歌っているように愛は全てを超えますよね。痛みも愛の中で作られていくわけですが、それを癒すのもまた愛。fightの渦中にいる時は、Sun&Moonでさえ対立構図で捉えてしまいます。しかし愛に溶けていけばno day、no night となっていきます。渦中にいる人は元気出してくださいね。loosingされた愛は必ず戻ってきます。期待と不安が大きいのは愛が大きい証拠でもあります。切り離されるのではないかという不安やこんなに頑張ってきたからそれには当然応えてくれるだろうという期待は誰にでもあります。

愛とは、そういうことに対して深い理解を示すことですが、それが<何時でも>という条件がつけばなかなか難しいでしょう。そこからあらゆる人間のスレ違いが生まれます。でも、<何時でも>そういう方向に向いておきたいという気持ちは持てます。歩み寄るという行為はとても大切です。

no pain no more は、私の女神信仰の中のベースでもあります。私が10年まえに米国のアフガン侵略のデモに参加したのは子供たちが犠牲になって欲しくなかったからです。今度はイラクリビア、FUKUSHIMA です。何をやっても状況は悪くなる一方です。非常に強い危機感を持っています。私たち大人がなんとなく過ごしている時間も子供たちは深く傷ついています。そういう社会問題を解決できないあらゆる経済活動や市民活動は無意味であると私は思っています。私にとって名目上の日本とか外国とか、どうでもいい問題です。問題は弱いものが犠牲になっているかそうでないかだけです。私たちの先祖はその1点に対して強いこだわりを持っていましたので、それが日本人であり、日本国であると私は思っています。FUKUSHIMAの子供たちが犠牲になっても声を上げないような、いつから我が国はそのようなハシタナイ国になったのでしょうか、、先祖に申し訳が立たないです。

愛と神は同じようなものです。深い形而上の認識だからです。現代人がそこに到達するための最も効果的な方法は、合理的思考を用いたメタファーでの神認識です。それが私のブログの意図です。なので、私が伝えたいことは行間に隠れていると思ってくださって結構です。ひとりひとりが自分の周りにいる最も弱いものを救えば世界は変わります。


「痛み過ぎて 愛来たるらし 白耐えの 涙干したり 天香具山」




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