泥から咲く蓮よ 闇から裂く天の安河よ
闇とは何か。それは足元に視点が向いてしまい、歩みがストップしてしまうことです。「立ち止まって考えてみる」とは言いますが、最もクリアな思考がもたらされるのは私の場合はウォーキングしている時や走っている時です。
つまり、人はどこかへ向かっている時に最もクリアな思考を手に入れるのです。天照大神の荒魂を撞賢木厳之御魂天疎向津媛命(つきさかきいつのみたまあまさかるむかいつひめのみこと)と呼びます。これは一般的に瀬織津姫の別名とされますが、現在は兵庫県のwikipedia:廣田神社に祀られています。
この神名の言霊の中に『何かに向かうことこそが身体に火を起こす』という意味が含まれていると私は感じます。なので闇に捉われた時は身体を動かすか、口を動かすかのどちらかを実践しなければいけません。思考だけを動かしてしまえばさらに捉われてしまいます。
なぜなら、祓いの行為のベースが身体的領域とロゴス的領域によって成り立っているように、祓いを座禅で実践することは困難です。禅には作務と禅問答があるように座禅だけで禅が成り立つわけではありません。
ネガティブな言葉が全てネガティブだと捉えるのは間違っています。光に向かうネガティブ性と光に向かわないネガティブ性があります。光に向かうネガティブ性が最も位(暗い)が高いです。
例えば
①この世は愛でできている。
②愛だけでできているわけではない、この世には憎しみも恨みも怖れもある。
③この世に愛なんてあるわけないでしょ。
現代日本人の思考回路は①をポジティブとし②③をまとめてネガティブにしたい力学が働きやすいです。なぜならば真の信仰は②からしか生まれないので、①の人は潜在的に②を怖れるのです。ポジティブシンキングや引き寄せの法則などは単なる思考ゲームなので、信仰を持った人には太刀打ちできないのです。
私が小学校の時に母方の祖母がなくなりました。誰にも優しく分け隔てなく接する素晴らしい女性でした。顔はほとんど覚えてませんがどういうエネルギーを持っていてどういう性格の人だったかは覚えています。信仰心が厚く当日も天理(奈良)にいましたので皆が良かったんじゃないか、、みたいなことを言ってたようなことはかすかに覚えています。強烈な内なる信仰を持って天に召されるということがどういうことであるかを教えてくれたと思います。
祖母が拝んでいたのが教義ではなく、生活そのものだったであろうことは小学生の私にもなんとなくわかりましたし、今もそれは確信に満ちています。それほど、もの言わぬ人間の生き方というものは他者の生き方に影響を与えるものです。私もこの祖母がいなければポジティブシンキングとか引き寄せの法則とか、、、言っていたかもしれません。しかし、私たちの2世代前の人たちでさえ現代人の想像を絶するような信仰を持っていたのです。それが1300年前あるいは2000年前となると絶句するような信仰心であったことだけは明白です。歴史学はこのような部分に踏み込んで歴史を捉えようとする学問ではありません。だから私はこのような歴史ともオカルトともとれるようなブログを書いています。
文字の羅列だけでは真実は見えてきません。そこには生きた人間がおり、次世代の人間に強烈な印象を与えた生き方をした人間がいたはずです。そういう人たちが何を信じ、何を愛し、どこへ向かっていたのかを知ることが、私の楽しみでありますし、そこからエネルギーを頂けます。だからこそ私は先祖崇拝をしています。
少なくとも私と祖母が同じ方向を見ていたことだけは確かであるので、随神道が発生した古代においてもそれほど方向性は違わないだろうと思います。それを知ることによって私たちは先祖とつながり、永遠の愛の泉へとつながることができます。これが祖霊信仰の原型でしょう。
時に人は、未来が見えなくなりネガティブ性が増します。しかし、祖霊を意識すれば常に私たちは未来へ向かっていることだけは認識できます。西洋の個人主義という壁を越えて元の鞘に戻れば私たちは再び安心感を得ることができます。何かになろうとせずとも、何かを成し遂げようとせずとも、私たちはただ存在するだけで命をつないでいくことができる赦された存在なのです。
闇は83でも表されます。83は、必ず84(橋/箸/蓮/天の安河)に向かっています。
一人の天の服織女が驚いて梭(ひ)で陰部を刺して死んでしまった。ここにきて、天照大神はスサノヲの行動に怒り、天岩戸に引き篭ってしまった。高天原も葦原中国も闇となり、さまざまな禍(まが)が発生した。そこで、八百万の神々が天の安河の川原に集まり、どうすればいいか相談をした。wikipedia:天岩戸
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