大王は大河の賜物/玉者(鶴っ鶴っ葛城 by Kさん)

今、追っている問題がwikipedia:継体天皇に集約されてきていることもとても面白いと思います。

足羽山には3年程前に行きました。当時スピコンと言われていたイベントに出展した帰りだったと思います。理由はよくわかりませんが、肌感覚で同じ文化を持った大王だと感じました。それはその後、多度大社へ行った時も感じました。
河の王の文明というのは、先住民族系の文明*1です。そこには龍神が存在し、水をコントロールするものが大王であるという思想がありました。つまり【龍=大王】なのです。その結果、宝刀に七つの星が刻まれる文化がずっと続いていました。

聖武天皇の宝刀は最近新たな銘文が見つかりましたが、wikipedia:七星剣については何度か書いています。高知の七星剣が最も古いです。元興寺文化財研究所によって朝鮮半島製ではないか?という説が出されていますが、多分違いますよね。高知では1世紀から製鉄が始まっていましたから。鉄と関わりが深い高知・上ノ村遺跡の状況は下記になります。

埋蔵文化財センターは6日、仁淀川河口に近い上ノ村(かみのむら)遺跡(同市新居)から弥生時代中期末(1世紀初め)の鉄製品や鉄片などが大量に出土したと発表した。
 砥石も見つかったことから鉄製品の加工拠点だった可能性が高く、県内では2〜3世紀と考えられていた鉄製品の生産・加工の歴史が200年近くさかのぼる可能性が出てきた。
 出土したのは、弥生時代中期末の円形の竪穴遺構(直径約10m)からで、鉄製品約170点。小さい物で約1cm四方、大きな物では縦約6cm、横約1・5cmで、用途が具体的に分からない鉄片などが多いという。遺構の周辺も合わせると計約250点の鉄製品が見つかっている。
 県内の同時期の遺跡では鉄製品は数点見つかる程度で、矢尻など用途が判明している物がほとんど。また住居で大量の鉄製品を使用することは考えにくいことから、鉄製品の加工場所として使用されていた可能性が高いという。
 弥生時代中期末の鉄製品は、県内では南国市や香南市で数点見つかっているのみ。対岸にあたる高知市春野町の西分増井遺跡で見つかった弥生時代後期の鉄器生産地より100〜200年さかのぼる。
 九州北部などを除いてこの時期の鉄製品が見つかることは稀れで、同センターは「この辺りが九州から鉄を輸入する交易拠点の一つだったのだろう。鉄製品の生産が広がっていく始まりを解き明かす資料」としている。
 九州北部では縄文時代末〜弥生時代初頭(2800〜3000年前)に鉄製品が使われ始め、弥生時代後期(1〜3世紀)に全国に広がったと考えられている。
 現地説明会は8日午後1時半から。仁淀川沿いを護岸した江戸時代前期の大規模な石積みとともに説明する。
[参考:高知新聞、読売新聞、朝日新聞毎日新聞]
歴歩

つまり、高知では北部九州や吉備と同じような時期に製鉄が始まっていたということです。wikipedia:鉄参照。2年ほど前にウィキを見た時は、確か製鉄開始時期が3世紀ごろと書かれていたので間違っていると思いましたが、今はキチンと修正されています。上ノ村遺跡が製鉄史に上がってこないのは遺跡が巨大すぎて発掘が間に合っていなくて炉と窯がまだ出土していないのです。しかし、この周辺は日本最古の戦傷痕人骨が出土した居徳遺跡(園田義明めも。)も含まれるエリアであり、日本で最も早い段階で鉄を精製しなければいけなかった理由があります。

また、この遺跡が仁淀川という大河の河口付近に位置し、四万十川河口に位置する七星剣を伝承している一之宮神社との宗教意識が非常に似ているという事実もあります。この文化は九頭竜川継体天皇や多度大社の【河=王】信仰*2と同じなのです。

しかも、継体天皇の即位の宮・河内国樟葉宮(くすばのみや)は、桂川宇治川(淀川)・木津川の3つの川の合流地点にあり、明らかに上記の流れと密接な関係性を持っているのです。

結論を先に言えば、継体天皇は決して、突如として現れた外来の天皇ではなく、弥生時代からの*3我々日本人の信仰をしっかりと受け継ぐ正統な大王であったと思われます。

正当な、、という言い方も非常に微妙ですが、居徳遺跡に現れた戦傷痕の謎は、おそらくオリエント鉄器集団の渡来を意味しており、仏教/稲作だけでなく、鉄の伝来も朝鮮半島経由と黒潮経由の2つのルート*4があったと思われます。地中海ではちょうどwikipedia:フェニキアアッシリアの攻撃を受けて独立を失っていってましたから、お得意のレバノン杉の舟で東に流れてくるのは妥当であろうと思われます。地中海から日本までの距離は、地中海の端から端までのたった3倍ほどしかありませんから、それを【移動できない】と考えられている方々の思考回路は私にはよくわかりません。

wikipedia:スエズ運河もラムセス2世によって開削されていたともされ、この部分は丹波湖を開削した秦氏と強烈につながりますよね!しかも丹波湖は紅い湖と言われており、wikipedia:紅海にもつながります。紅の由来はわかっていなくて、南を指すとも言われているようです。日本では南の空に出る先日から言及していますwikipedia:アンタレスですが、実はエジプト王朝の創始者はさそりです。wikipedia:スコーピオン・キング

wikipedia:セルケトがさそりの神格化ですが、セルケトはイシスの眷属と言われています。建国の地・阿波がファラオ信仰が異様に強いので、その時代の他地域がどうであったかということに非常に興味があります。京都の山科がすごい謎を秘めているので只今調査をしています。おそらくまず山科ありきで、丹波湖開削の協議がなされ保津峡が開かれ京都北部が開拓されていったという構図が見えます。

ただ、山科の基層には日ノ本国の影響も多分に受けていた痕跡もあり、秦氏賀茂氏、そしてファラオ信仰(忌部氏か?)と結合していく様がとても興味深いです^^

継体天皇が筒城宮を木津川流域に構えたのも、そこに木津川という大河があったからで、木津川の水源を越えるとすぐに伊勢湾なので、そういう部分も考慮に入れれば私たちの先祖の宗教意識というものが手にとるようにわかります。筒城宮が淀川を下って大阪湾に一気に下れるぎりぎりのラインです。古代の戦争は舟による戦争でしたからすぐに出陣できない都などありえないです。これは弥生時代から白村江の戦いに至るまでずっとそうです。


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*1:先住民族系の文明とは言いましてもそれらが完全に失われたわけではありません。笠置の項でも書いたように政権運営に支障が出ないように形や名前を変えて本質的部分は継承されていきました。その隠された部分を表に出そうとする道真のような先住民族の色彩が濃い人物は左遷され祟り神となっていったのです。

*2:清流が青龍http://d.hatena.ne.jp/kohya_hibiki+spirituality/20111007/1317985195と韻を踏んでいる点にも注目です!神武天皇が青い国を治めるニギハヤヒがいると言った先住民族の青い国とはおそらく、この【河=王】の文明のことなのです。調べてもらったらわかりますがニギハヤヒ伝承の影には大河というキーワードが常に横たわっています。

*3:弥生時代からのという注釈をつけたのは、縄文後期から渡来してきた人たちが縄文と融合していった流れも日本史の一部であり、それは縄文とは少し変わってはしまいましたが、大勢では大きな違いはありません。縄文ヴィーナス信仰がオリエントの女神信仰で近代化し、ムラの首長制がファラオの大王制へと昇華したのです。それが最終的に女王卑弥呼へとアルティメットしていったのですが、そのプロセスがなければ我々大和は中国に占領されていたでしょう。そういう意味においては縄文後期からやってきてくれたオリエントの鉄と女神信仰をもたらした渡来人たちには感謝しなければいけないと私は思っています。ただ、最も偉大なのは、そういうオリエントの文化を吸収理解する下地を持っていた縄文人の宗教意識と知能指数の高さであり、それはシュメールにも通じる高度な意識を持っていたと思うのです。

*4:居徳遺跡と同じ時期に北陸のウッドサークルが建てられていることにも注目です。突如として現れた北陸ウッドサークル。明らかにノースペイガニズムの信仰http://lemurian.blog.shinobi.jp/Entry/370/が入ってきています。