暗闇の中から顕れる真の女神 〜所有欲を超えて〜

満月に合わせてブルーになっている方はいませんか?ブルー(青)が、悲しみを表すようになったのはいつからでしょうか?青は圭月とも読めますね。つまり、月の桂。

それに関係することを少し。。。

昨日の門神記事の続きでもあるのですが、門の中から音が出始めるのを闇と書きます。

つまり、常に門は暗いのですよ。

ですから、暗いは、位が高いのです。これは水神の【たかおかみ/くらおかみ】のクラにもつながってます。倉とも書きますね。桜のクラも、このクラです。

そのクラから音が鳴り始めることを、以前巡礼ワークをやっていた時に”音鳴り”と呼んでいました。その原理や秘法についてはブログでは書けません。ご自分の哲学や人集めに流用する方がいらっしゃるからです。

現代は、与えることよりも受け取ろうとされる方が多いです。先日も平安神宮へ行った時に一円玉を投げ込んでいる方がたくさんいました。だからといって一万円札を投げ込むことが良いことだとも思えません。

要は、その維持管理にどれくらいの苦労があるのかを察することであり、それに対して自分がどれだけ素直に感謝できるかどうかの問題だと思います。

スピの世界でもインスピレーションを盗用するのが当たり前になっていますが、そういう方たちは期間の差こそあれ、必ず失敗しています。奪って奪って奪うことが自分の身を破滅させていくことがわからないのですね。そのようなつまらない挫折で失敗してほしくないので、色々と言っていますが、やはりそういうことを認識するのはなかなか難しいようです。

エネルギーの源泉や血の源泉(先祖)に常に感謝を捧げていない人は必ず失敗します。これはエネルギーの法則なのです。侍は戦場で雌雄を決する時、どこの土地の何某かを宣言し、辞世の句を詠みました。最後の最後まで正直に生きた素晴らしい先祖たちです。そういうことを常に宣言していませんと、自分の中に必ず嘘が生じてきます。それがネガティブパワーを引き寄せ拡大させます。

ほとんどの場合、その嘘を見たくない、でも真実も宣言したくないという心情からエネルギーが上昇することが抑えられます。クンダリーニがバランスチャクラを超えて上昇しないので、行動力が空回りするか、欲望が増大します。そのため、クラウンチャクラへの崇高な理想やビジョンに到達することがなく、それと同時にクラウン性への理解力も薄くなります。

”頂くことは与えること”の原理を知っている方は何をやっても成功します。これが、巡りであり、恵みであり、女神理であります。つまり、女神意識です。本来、日本とはそういう国です。”金は天下の回り物”と呼ばれ、軽視も重視もされていなかったです。ただ、そこに日本古来の循環の思想があっただけのことです。与えるエネルギーが沸いてこない人の思考パターンには、常に受け取ろうとする姿勢があります。それが循環の輪から外れているので、内側から女神のエネルギーが沸いてこないのです。無限の循環のエネルギーを持っている人は、常に与える場を探しています。だからこそ何事にも主体的に取り組めて、全てが自分から始まることも知っています。愛・主体性・女神意識・哲学には深いつながりがあります。この思考パターンを分析することによっても自分が直線型のエネルギーを持っているのか循環型のエネルギーを持っているのかを判断することができます。

昔は、河の上流に住む人は、下流に住む人のことを考えて絶対に河を汚しませんでした。皆が水を分け合って生きているからです。その水が汚れてきた原因は、日本人の深層心理に隠されています。

どれだけお金を払わないかに執心し、与えられていることに気づかない、だから感謝もできない。そういう原理が横たわっています。これを水に言い換えると我田引水と呼びます。政治家だけが我田引水をやっているわけではありません、一般の末端の人たちがそういうことでありますから、それらによって支えられている政治家がまともなわけがありません。

明治時代の日本人は、自分の食費を削っても才能がある人がいれば、皆でお金を出し合い、才能ある人を学校に行かせてあげたりしていました。【公の思想】や【循環の思想】を一般の末端の人たちが認識し、実践していたのです。だからこそ、当時の日本政治は世界でも類を見ないほど発展していました。もちろん同時に水神も大切にされていました。

何年も何百回も、あの手この手を使って言い続けています。私は小さい頃から河で遊んでいましたので、その遊びの中からこの女神理を認識しました。今でもそういう環境は普通にあると思います。日本は元々そういう国ではないでしょうか、与え与えられるの。ちなみに天石門別さんがある川とか鏡川と呼ばれる川でも遊んでいました。

日本における資本主義とは経世済民「世を經(おさ)め、民を濟(すく)う」を意味しており、西洋で発展したeconomyではありません。近江商人など江戸初期の水の循環思想を元に生まれています。お金は水と同じです。誰でもたくさん欲しいでしょう。

最初の話に戻りますが、なぜ闇という文字が門から音が鳴っているかと言えば、上記の所有欲の問題と深く関係しています。弥生時代には所有欲の原型となる稲作が始まっています。それ以前は、大地の豊穣を頂く狩猟採集系の文明でした。日本神話がなぜ穀物神話なのかを考えますと、稲作と所有欲が深く関わっていることを知ることができるでしょう。

その所有欲を捨てるのが門神を超えて高天原に入っていく最初の関門です。これはクオリアの最初の授業科目でもありました。禅の基本でもあります。

向こう側は暗い(位)ですよ^^所有欲という自我がないわけですから。明るいというのは自我という眼があってこそ初めて認識されることですから。

そういうことですので、昨日書きました【水と光と音】の光の部分は、実は所有欲という自我に関わっています。つまり、光を視ることは自我があってこそ。自我があるから星は輝くということもできます。でもそのベースには宇宙という自我のない闇があるんですね。

これを書いたからといって、誰かのことを指して言っているわけではないですし、こうしなければいけないという強制でもありません。昔はこうだったという歴史の問題として軽く捉えてもらえればと思います。

皆で少しずつ泉の文明を取り戻していきましょう!


与えれば与えるほど愛の泉は沸いてきます。自然を汚さず循環に感謝し続ければ、自然は余りある豊穣を与えてくれます。循環型社会はエネルギーの話だけではありません。私たちの意識が変わることが最も大切です。



KOKIA / 花宴 〜桜吹雪〜

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