白と緑の中に眠る鳳(オオトリ)の隠喩

昨夜、wikipedia:四道将軍四道将軍のことについて調べてましたが、そのことについて気になることを2、3点。

wikipedia:大彦命が出陣の途中で不思議な少女に出会って、不吉なわらべ歌を聞いたということ。不吉かどうかを判断したのは誰なのか?大彦命が現地で不吉と判断したのであれば、わざわざwikipedia:倭迹迹日百襲媛命に占ってもらう必要はなかったのでは?

謀反を企てていたとされるwikipedia:武埴安彦命ハニヤスとは土のこと。大彦命はワカタケルの白の隠喩をまとっていた可能性があるので、白/土/桃のトライアングルも何かの匂いがする。単なる歴史逸話ではない。

水鳥には、死者の魂を来世から現世に迎える役割もあったとみられる。

池田古墳で全国最多の水鳥形埴輪出土 来世のイメージ(ネット社会、その光と影を追う)

この水鳥の意味は翡翠ともつながる。つまり、水鳥はミドリ(翠)と言ふ。

そして翡翠カワセミ

さらにwikipedia:オシリスもミドリ。

はたまた、河童もミドリ。

究極は、東大寺もお水取り(オミドリ)。ミドリを取る!河童を取る!wikipedia:酒呑童子を取る!実を取る!三取り!三鳥居!サントリー!ナンデヤネン,,,

東大寺は東への信仰。アサル(オシリス)と関係があると思われる大麻比古神社wikipedia:アアルの東への信仰。

かつては伊勢神宮への参宮を上参宮、村山神社参拝を下参宮と称し、西国三十三ヵ国の人々は村山神社参拝をもって伊勢参宮に代えたと伝えられる。

wikipedia:村山神社

ほとんど知られていない村山神社。天武天皇即位の礼の時に、ここに天照大神を祀ったというのは、ここが斉明天皇の重要な行宮であったから。『土佐物語』には、斉明天皇が暗殺前夜に後の天智天皇/天武天皇を連れて土佐朝倉に滞在していたことが克明に描かれている。

上写真は和歌山県白浜町の熊野三所神社境内内の斉明天皇の石碑。ここの境内から白浜の浜へ抜けられるんですよ^^

ちなみに伊豆の白浜(いこなひめ)神社は、駐車場からすぐにこんな感じで海につながっているんですよ。南伊豆も暖かいです。南紀も暖かいです。瀬戸内四国も暖かいです。海人族の匂いというものがあります。

話は全然それましたが、天武天皇即位の礼の時に豊受大神を祀ったのが愛媛県の豊受山。わかりやすいです、今でもそのまんまの名前ですから。その豊受山と姉妹とされているのがすぐ隣の翠波峰。これもミドリ。

重要なことは、この翠波峰から日本最大の局地風wikipedia:やまじ風が吹き抜けること。つまり、伝承では、天照(太陽)と豊受(月)を祀ったことしか書かれていないですが、風を祀ったこともかなりの確率で存在します。

なぜならば、その後天武天皇草薙剣の祟りでお亡くなりになるまでの間、年に何回も龍田の風神を祀っていたからです。龍田大社の創建は675年(神社・参拝神社紀行)です。白鳳時代の明確な年代が未だ定まらないので、時系列がつかみにくいですが、村山神社奉祭(天武天皇1年)-龍田大社創建(天武天皇4年)という時系列は変わらないでしょう。

天武天皇四年(六七五)三月丙午【二】》◆三月乙巳朔丙午。土左大神以神刀一口、進于天皇
天武天皇四年(六七五)三月戊午【十四】》◆戊午。饗金風那等於筑紫。即自筑紫帰之。
天武天皇四年(六七五)三月庚申【十六】》◆庚申。諸王四位栗隈王為兵政官長。小錦上大伴連御行為大輔。
天武天皇四年(六七五)三月是月》◆是月。高麗遣大兄富于。大兄多武等朝貢新羅遣級〓[冫+食]朴勤脩。大奈末金美賀進調。
天武天皇四年(六七五)四月戊寅【五】》◆夏四月甲戌朔戊寅。請僧尼二千四百余、而大設斎焉。
天武天皇四年(六七五)四月辛巳【八】》◆辛巳。勅。小錦上当摩公広麻呂。小錦下久努臣麻呂二人。勿使朝参。
天武天皇四年(六七五)四月壬午【九】》◆壬午。詔曰。諸国貸税。自今以後。明察百姓。先知富貧。簡定三等。仍中戸以下応与貸。
天武天皇四年(六七五)四月癸末【十】》◆癸未。遣小紫美濃王。小錦下佐伯連広足、祠風神于竜田立野。遣小錦中間人連大蓋。大山中曾禰連韓犬、祭大忌神於広瀬河曲。

日本書紀天武記(日本文学電子図書館

面倒ですので再度、日本書記天武記の3月と4月の一部を引用しますね。人間の認識は面白いですね。昔大きかった重要な神社が廃れて中央集権によって最近栄えた神社が昔からまるでそうであったかのように認識される。その幻想を打ち破るのが学問でありスピだと思うのですが、実際は信じたいことしか信じないというのが人間の性であると思います。

wikipedia:祈年祭にも書かれているように

平安時代中頃になると、天照大御神を主に祀る祭祀であると認識が変化しはじめ、院政期にはその傾向がさらに強くなり、祈年祭天照大御神を奉祀する天皇の祭祀として厳修されるようになった。13世紀初め、鎌倉時代初頭の順徳天皇の『禁秘抄』では、祈年祭伊勢神宮関係の祭祀であると明記されている。

とあります。つまり、天武元年天武天皇天照大神を村山神社に祀った時は、天皇祭祀としての天照祭祀は国民にもどこにも知られていない突拍子もないことであった可能性すらあります。むしろ、龍田/広瀬をしきりに祀っていた様に天武天皇自身も風の神をまさしく国御柱神として認識していたようです。その時に天武天皇に神刀を献上した土佐高賀茂大社とは何者なのでしょうか?ということです。しかも上の資料をご覧になればわかるように龍田創建の1ヶ月前と直近なのです。龍田大社創建以前に当時、土佐高賀茂大社と呼ばれていた神社が、かなりの勢力を持っていたことは明白です。祭神は一言主・アジスキと言われていますが、現地ではシナネさまと呼ばれています。シネは皆さんご存知の通り、wikipedia:椎根津彦、つまり倭国の祖神・倭宿禰さま(籠神社)のことでございます。

宿禰が称号であったとしても、なぜかヤマトオグナ(ヤマトタケルの幼名)とも重なります。

HealingMasterTempleを修正したり、新しい日本神界系のセッションを追加しています。


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