529の神
ひとつのエネルギーが終わり、離れるものたちは離れ
関係を続けていくものたちは続いていく
固執せずとも手放せば必ず新しい関係が入ってくる
今の関係もその巡りによって構築されたものだ
ただ人は忘れがちで、とかく現在にしがみつく
やってきたことが次々と終焉を迎え
次々とネガテイブな最終攻撃を仕掛けて来るけれども
そのエネルギーを客観視できるものたちはそのエネルギーに惑わされない
怒りのパワーが湧いて来るときは
誰かに何かに期待していた自分を反省しよう
冷静になれないときは
自分のステージが次の段階に差し掛かったという状況を認識しよう
立て続けにネガティブなことが起こるのは決して偶然ではない
過去、撒かれた種が一気に芽吹いたのだ
解決できない問題は与えられない
その自然の原理原則を深く認識するだけでネガティブだと捉えていた現象がポジティブに変容していく
結局は、人は自分の脳内にでしか起こり得ない
不安と恐怖というデマゴーグによって
今日も洗脳され現実解釈を間違っていく
決してネガティブな現象などない
ネガティブだと判断する自分がいるだけなのだ
山上高天原の巨鳥、葦原の野宮で身篭る 〜 Yayoi 〜
コノハナサクヤ姫が産んだのは、実は瀬織津姫でこれが後に天照大御神となる。
伊予一之宮が大山祇(大神島)を祀り、イワナガ姫(石鎚山)とコノハナサクヤ姫(鳥文化カヤの総称)を娘としているのも自然な流れである。私たちが失った邪馬台国の文化がまさにこれで、しっかりと日本書紀に書かれていたのである。
邪馬台国は四国山上(高天原)で、そこから里に下らなければならなかった時に、山上鳥葬文化の邪馬台国は、水神瀬織津姫を差し出し、里の弥生の権力と誓約した。そこにいたのはまさに賀茂氏である。
それは伊曽乃大社にすべてが残されている。野宮に籠り、禊と祓いをする斎宮の文化もまさにこの鳥葬文化の名残であり、伊勢は伊曽乃(磯野)から来ている。
四国中央部の南北ラインは、帆船戦争時代という軍事的視点で見ても重要な意味を持つ。一山越えれば瀬戸内と黒潮を統制化における。なぜ高地性集落が北部九州にないのかを考えれば、
鳥葬文化を持っていた邪馬台国の本拠地がどこにあったのかがわかる。所謂、鳥型埴輪とは魂を鳥が運ぶという宗教意識から来ている。コウノトリ、トキ。大鳥、鳳、ヤマトタケル。
天武天皇が愛媛県西条市の伊曽乃大社で即位の礼をし、草薙の剣の祟りで土佐高鴨大社に病気平癒のためブレーンの秦石勝を遣わしたのも大きな意味を持つ。天武期の白鳳の大地震で土佐沖の狗奴国が海に没しているのだから魏志倭人伝を誰も読み解けるはずがない。
祈年祭を通して伊勢神宮を現在の地位にまで高めたのも天武天皇に他ならない。
私たちは今、戦後体制だけでなく、明治期の中央集権国家、天武期の律令国家をも総括する時代に来ているということである。
さらに言えば、緩やかに邪馬台国らしき連合国家の核心部に権力が集中されていた集権構造さえ読み解き武装解除しなければならない時代に来ている。つまり、そこまで読み解かなければ私たちは国家を再構築できない段階にまできている。国家を再構築というよりもクラウドな連合政体がどのような中央集権国家よりも力を持つ時代に突入してきたのである。民主主義が進めば進むほど同じ宗教意識を強烈に持っている集団が最も世界における覇権を握る。それはもうすでにNation(国家)という価値ではない。
燕パース星
毎日が忙しく、肉体が疲労してきますと
何のためにこれをやっていたのか、がわからなくなる時があります。
原点や原因を喪失してしまうことほど馬鹿らしいことはありません。
一般社会、いわゆる戦後資本主義社会体制下では”お金”によって人間を支配するカースト制度が完全に定着していますので、それを相対化できる哲学性がないとあっという間に個人の表現ができない状態に陥ってしまいます。
哲学性と神聖性は今まさに表裏一体で、あらゆる事象が何らイノベーションをもたらさない夢のない現象の総称になっている今、私たちは本当に偏見を棄て、国内を大移動し、真に大切なものを探し出し、それらと融合しなければいけない段階に入っています。
移動・移住・観光・Web、などの時代は終わり、私たちは地域性を超えて私たちの問題をひとつのテーブルにあげて自分のこととして議論することができます。
その体制が整ったという点において今年2017年は特筆すべき年でしょう。
これまでは地域性が障害になり、自分の地域こそが優位だ、との、戦後資本主義の亡霊、あるいはマルクス・レーニン主義の総括が私たち若い世代の競争原理のエネルギー源になっていたことも夙に知ることになったと思います。
私たちが日本人として真剣に未来を考えた時、レベルの低い自民党政治を議論のテーマにすらすべきではなく、もっとかなり上のレベルの政治思想を議論し共有することをすべきでしょう。
スイスのようなハイレベルな自治、および民主主義を手に入れるためには私たち日本人ひとりひとりが成長する必要があり、自国の歴史を知ることはもちろんのこと、宗教意識・哲学性においても先祖のレベルを超えるレベルのものを体現する必要があります。
信仰という名の侵攻 〜 キャニオラ・ブライトゥン 〜
それぞれがベストを尽くし認め合う共和国
信仰という名の侵攻を受けてきた私たちは
解放される術も
何も知らされないまま
ただ何となく
2015年11月の満月から始まったこのループは
2016年9月11日をセカンド・ピークとし
さらにアセンドし続けている
波に乗るのは難しいのかそうでないのか
ほぼ
気持ちが追いつかないという状況が多々
個々の分裂は激しく
とても愛と調和には程遠い
それが一気に融解するきっかけとは何か
私たちは
崩すものと崩されるものに分かれる
分離と融合のゲームは終わり
2元論闘争も終わる
個人主義も共同体夢想も終焉を迎え
私たちは自らの聖域でつながるしかない状態となる
私たちは何がしかの才能を持っていて
極度不全な存在ではないことを
証明する機会が用意されている
浮揚か腐葉かの判断は
自分ではなく後の世の人が決めること
切り開くのは未来かそれとも自分自身か
ベスタチアには
ラヴィエスタという楽園があり
そこにはセイクリッド・マターが存在する
9.1狼来る 〜 大神繰る 〜
東京・横浜からたくさんの方が移住して来られてて
地元紙でも『なぜ横浜からの移住者がこれほどまでに多いのか?』
という特集記事が組まれるほどになっています。
実際に移住して来られた方は
”単に人口が多いだけ”と言っていますが
色んなことを冷静に分析するとそうでもなさそうです。
多摩川流域に存在したと思われる武蔵六之宮の杉原神社はこの椙本神社に対応する。そして天津羽羽を祀る土佐二之宮朝倉神社は武蔵二之宮に相当し、同じアラハバキを祀っている。アラハバキとは天津羽羽神の荒魂。すなわち北極星の荒ぶる側面。瀬織津姫とも天白信仰とも言う。そして土佐・武蔵、両者の国府(国衙)付近には延喜式内社の小野神社(Dragon Anasta)が存在する。
武蔵一之宮から六之宮すべてが土佐の6つの神社で置き換え可能である。しかし、京都や奈良ではこうはいかない。なぜならそこには一貫性のある土地から湧き起こる土着神を祭祀していたわけではなく、地方から寄せ集めてきた神々があたかも古代からそこにあったかのように半ば強引に配置されているからである。天武朝で創建された神社を調べてみるとそれが良くわかる。私たちが最古と考えている神社はそれほど古くはない。ほとんどが7世紀の創建である。
そして、古代多摩川が目黒川に氾濫時につながっていただろうと推測される同じ地形が高知に存在し、その構造と神社配置がおそろしく似ている。
そして目黒川の下流域は品川。そう、品川の”品”は三輪の神紋。そこで大国魂神社のお水取りが行われる。秩父と武蔵御嶽の眷属神に守られてこそ品川の三輪のお水取りは成功するのである。
そして、関東各所に存在する女体神社と大宮氷川神社の三体妙見もおそろしいくらい高知のものと一致する。土佐石土神社の妻は女体神社(石巣姫)、その生殖によって生まれたのが新宮神社。大宮氷川神社の根底にもこの思想が見られ、氷川とはすなわち日川であり、日御子を生み出す力を持っている川のこと。四国の場合は丑寅の剣山から土佐の内湾に氾濫時にだけ注いでいたけれども、関東では丑寅の方角にそのような高い山がなく、また丑寅から流れ出る川がなかったため、秩父や赤城山にそのリソースが当てられたのかもしれない。この部分だけが四国と違う。(LemurianResonance『聖音オーム、そして三輪』)
7年前に書いた記事ですが、やはり当たっていると今になって、ひしひしと感じています。
古代律令国家が作られると同時に失われた本当の瀬織津姫祭祀。周辺部に残っています。その最西端が高知の仁淀川、そして最東端が東京の多摩川。
高知県伊野町の大国さんと東京の大国魂さんの本質は、おそろしく似ている(とする)。
おそらく今の流れは、単に移住ブームとかではなく、失われた神性を回復するためのレコンキスタ
そして、『狼』つながり
隠しきれない鼓動 〜 戸が九死に一生を得る 〜
私たちの目の前に現れた一歩先の未来
本来のダメージよりもネガティブな結果が一歩先に来ることによって
その多くのダメージが軽減されるという
では、一体、順繰りで来ていたならば
最悪の結果となっていた未来とは何か?
私たちは来年の今頃、もっとひどい体験をすることになる
今は、それが何か、多くの人には想像だにできない
"現在は未来より生起する"とハイデガーが言ったように
今起こっていることは、未来に起こることの原因となる
現象には、必ず一貫性がある
戸が開く前には、戸は必ず閉まっている
閉まっていない戸は、開くことができない
つまり、閉じていると感じている人だけが
”岩戸開き”を認識できるのである
この差は、年々大きくなりつつある
”なぜ、戸が隠されているのか?”
なぜならば、開くという概念を認識させるためにあるのだ
この【逆転の発想】で考えると
≪戸隠≫は隠されたものではなく
開かれたものとなる。
つまり、正反対のものを認識することで
その逆の立場であろうと思われる<今>を認識できるのである
さらに言えば、逆の立場の考え方を理解できるという時点で既に答えが見えているのである
俺たちの求めた未来とは何か
なぜ、俺たちは自分たちを過大評価するのか
まず、それを冷静に問わなければならない
正当な評価を過小評価し、誤った評価をさらに過大評価している
簡単に誰にでも手が届くだけの哲学ならBeatとは呼べない
誰にも手が届かないだろうと自認する哲学を世界に広めるなどと考えること自体
大いなる矛盾なのだ
わたしたちは、”団結”の手法を間違った
資本主義を乗り越えるために資本主義的団結の方法を使った
その支配はさらに強化された
コミュニズムを自称するものにまで他者を支配しようとする
強欲資本主義の萌芽を見ることができる
使い古された、自立・自由・愛・調和などと
真に屹立した『独立した個性』など
日本に見ることができないか
忌まわしい資本主義化された芸術とアーティストにうんざりしながら
真に屹立した戦国の個性と自由なNatureに隠しきれないKodoを
アジテーションゴールド 〜 盲目な人間たちのアウトブレイク 〜
“誰かに何かを変えることを期待している”という点において日本とアメリカと英国は、同じ社会問題を抱えた均質な社会を持っていると言える。
アメリカはトランプの出現によって、国民自らが社会を変える術を持ち得てないことが証明された。
英国は、EU離脱投票結果を経ても誰も責任をとらないという状況から、変革を誰かに委ねている状況であることは明らかだ。
日本も安倍晋三、山本太郎、三宅洋平など、思想的スタンスは違えども、メディアを利用してアジテーションし、自らの承認欲求をも満たしてしまおうとする資本主義的精神構造は同じである人間たちが如何にも立場の異なる人間であるのかのように認識されているが、金を受け取って自民党サポーターをやっているネット右翼と三宅洋平や山本太郎のアジテーションでサポーターをやっている連中は、どこをどう切り取っても、思想的に独立していない同じ“狂った果実”であることに変わりはない。
われわれが、今、しなければならないのは、自らが各個独立した思想、特に国体ビジョンを持ち、それを実現できる政治家を支配下においてコントロールすることである。これが、本来、憲法に記載されている社会構造であるにも関わらず、憲改か護憲かなどと、ヒーローを仕立てあげ、その扇動に酔いしれ、その構造の中で互いを批判し、もめているのは、まさに烏合の衆と言える。つまり、代議士自体を≪私たちの代理≫と認識せず、≪私たちの代表≫と認識しているのは、そもそも民主主義の根本を理解しているとは言い難い。
だからこそ、投票こそが唯一の民主主義的行為と誤認してしまうのである。
われわれは、日本国憲法草案が出来た植木枝盛の時代の知性に少しも到達できていない。安倍晋三に憲法を改正する権利がないと同様に左翼野党にも護憲運動を行う資格すらない。
それはつまり、あまりにも戦後日本人は未熟であり、“法の精神”を持っていない人間が法治国家で法の手続きを経て憲法を改正したり、改憲勢力を攻撃するなど無理むっちゃくな話なのである。この未熟さは、アメリカも英国も今や同じである。
この結果を哲学的に分析すれば、英国EU離脱開票結果とは裏腹に世界は緩やかな大連邦制へのリバランスに向かっているとみていい。
つまり、英国のEU離脱は神話的に見れば、さらなる巨大な連邦制への一早い参入とみることができる。日本にもし仮にこの状況を察知できるクレバーなC1層が数人いれば世界再編へのパトリオットを撃つことができる。
“法の精神”を全く理解できていない世代が法治国家内で政府と迎合したり、それを批判したり。アジテーションを悪用しながら、世界や自国内のテクノクラートへ参入しようとする様は、ISと何ら変わりがない。
モンテスキューがアジテーションを用いたことがあっただろうか?
正しいことを正しいと言える社会には、教養がある。その教養が今の日本社会にはない。自分が認められなければ、怒って敵意むき出しで攻撃。これが現代日本人の基本的素養である。全く異なる意見をも包含するような思想を一緒に編み上げていこうとする意志もなければ意欲もない。
現代日本の経済社会で”働く”ということは、結果的にグローバリズム経済に加担し、ISを生み、原発を生み、遠い国の人殺しに間接的に関与しているということである。この事実に気づくならば、一日も早くこの経済構造から自立し、グローバル経済に関与しない生き方を選択することが最も政治的な活動となる。安倍晋三も三宅洋平もグローバル経済の支配下にあるメディアを利用しているという点において同じ穴のむじなである。
つまり、その構造の中にあるうちは、いくら安倍晋三を批判・否定したとしても、それを止めることはできない。
グローバルではなくグローカルなEPAミックスな社会に進める思想を持った集団が出てきて初めて、私たちはアベノミクスを止めることができる。しかし、それが出てくる時は、アベノミクスは機能していないので、結局、言えることはアベノミクスを批判・否定することには何ら意味がないという結論にならざるを得ない。簡潔に言えば、グローカルなEPAミックスな社会に進むだけですべてが解決されるのである。