あたらしいアタラクシア 〜 苦悩からの解放 〜
カジナロックスが否定されてもブレない強さを論じております。
蛮族に囲まれ常に侵略の危機にさらされているわれわれの都市国家が理想をぶれずに掲げ、どのように国家を維持していけるのか、そのことについて触れている。
彼はその書物の中でこのように述べています。
『国家も人間も同じである。存在の真価というのは、それが危機に瀕した時に最も試される。従って、危機に瀕する場面は決して危機ではなく、その真価を内外に問える絶好の機会なのだ』と。
人間に不安が存在するように国家にも常に不安が付きまとう。その不安とは、自らの存在が根底から覆されてしまうかもしれないという不安だ。しかし、よく考えてみろ。根底から覆されようとしている自分自身とはいったいなんなのか?
それがわかってないから、不安が湧いてくるのだろう。自分の存在に不安がないブレない自分なら、そもそもそのような状況が生まれてこないのじゃよ。
わかるか、ジラルディ
”何が真実かわからない”というのは、そもそも思考の主体が自分自身に在ることが証明されているようなものじゃ。つまり、それだけで存在証明は充分ではないか、ということじゃ。
さらに言えば、お前は≪知性のリンゴ≫を受け取ろうとしているのじゃよ。知りたいという欲望を無意識のうちに拡大させているのじゃ
しかし、ピュロン卿。私たちは天空の庭園時代から知性が都市国家を開くという哲学の下、理想郷を築いてきたのではありませんか。その知性を欲望と断じる考え方には私は同意できません。
では、お前はお前自身の知性で世界のどこまでを知ることができると考えるのか。この地上のすべてを知ることができると考えているのか。もしそうだとするならば、お前はとんだゴンゴドーダン者ということになる。”考える”ということは、【自分の限界を知る】ということじゃ。それは決して【これ以上は知らなくても良い】ということではない。自発的に知ることの限界を放棄するのだ。
これが”Acatalepsy(不可知論)”だ。
お前の心の平安アタラクシアは将来、必要以上に知ろうとする無意識の行為によって乱される。
その時に不可知論という薬を飲むがいい。
そしてお前に恋人ができた時もじゃ
知りすぎる恋もまた毒じゃ
その逆も真であり
知ろうとしない恋もまた毒じゃ
知りたいという欲求が愛であるように
無理に知ろうとしなくてもいい、無理に重ねなくてもいいという
アタラクシアも偉大な愛じゃ
入口と出口の関係をヤヌス神をもって学ぶのじゃ