Best heaven exactly 〜 ニュートラルスター 〜
死んだように生きるのか、生きたまま死ぬのか、という問いは表現者にとっては永遠の課題
私たち表現者にとって永く辛い闘いであってもそれが自らの存在証明にまでアクセスできるテーマならば、その闘いも本質的には辛くない。
最も辛いことは心の内側をえぐるような作品や人に出会えないこと。つまり感性が閉じていくことは表現者にとっては正確な“death”を意味する。
何がニュートラルなのか。
これもまた永遠の哲学的テーマです。
それを解脱、涅槃、ニルヴァーナなどと呼びますが、その基準でさえバイアスであると言えばそういうことになる。
何にもとらわれない心を持つというのはとても難しいことです。
人は人を愛するし、長年の経験から人は経験則を持ってしまいます。
それを全て捨ててしまおうというのが“禅”の本質でもあるのですが、幸福になりたいという自然の感情を否定してしまえば、それは出家するということになるでしょう。
男と女の学びは最終的には“尊重し合うこととは何か”を知ることでもあり、愛し愛されることがその最終目的地ではないのである。
人は誰でも愛すれば“支配”を試みるが、“支配”しない愛が尊重であり、受容であり、与えられた自由である。
それが全く他人の話ならば誰にでもできるわけですが、愛を伴ったそれが誰にもできるのかと言えば、そうではないから神は試練を与えるわけである。
それを、価値観が違うとか学びは終わったとかワクワクしたいだとか、非常に低俗な理由で一度決めた人生航路を途中で投げ出してしまう現代的風潮はまさに“原発を許してしまう心の弱さの根源”がそこにあると言えるでしょう。
皆、それぞれで苦しいわけであり、その中でいかに他者の苦しみを低減できるかを日々悩み実践しているわけで、誰か一部が苦しいわけではありません。皆が苦しいのです。
お金があったらもっと幸福なはずなのに、と考える人は多いかもしれませんが、私の知り合いや親戚の中でもお金があって幸福な人は一人もいません。
手にした必要以上のお金を守るために必要以上の時間を浪費し、大切なものを見失うのには十分な素地が出来ているという感じです。
お金がないことの苦悩とお金があることの苦悩は現代的意味においては同じレベルの悩みです。その二項対立から逃れるためには“ゲーテでも読んだら?”というのが私の提案です。
どんな瞬間、如何なる局面においても“隣の芝生”を見てしまう人はいつまでも比較論理の中に存在していると言っても良いと思います。
そこから一歩抜け出し、“知足”、“生への感謝”へと目を向けられれば全てのことが与えられた試練であるし、心はもっと軽くなるのではないでしょうか。
世の中には五体満足でない方もたくさんいますし、生きたくても生きられない人も大勢います。福島原発大人災によって家族を失ったり、家族が離ればなれになった方々もいます。
そのような方々の苦悩に比べれば一般大衆の感情的苦悩は泡沫論に過ぎないとも言えます。
とは言っても今のような不確かな時代に愛することだけは確証を伴っている。保有資産は合理的に外資化すれば為替の変動によって極度のダメージを受けます。
愛することの不安や怖れも他国(他者)との比較論理(為替)の中で揺らされていけば、必ず失敗する時が訪れます。
原発事故やアベノミクスによる為替の一時安定化に隠れた不安定化は、日本人の集合的自衛権に多大な影響を及ぼしているのです。
今まさに起こっている集団的自衛権の憲法解釈の変更は、シャーマニックなデータにトランスレイトされてJapanese RAINたちの感情に破滅的な不安を投げ掛けているのではないかと思います。
日本の女神性たちを不安に陥れるのは本当にやめてほしいと思います。
なぜ卑弥呼が魏と通商を行っていたかと言えばそこに“女神性共栄圏”思想があったからです。それに対抗しようとしたクナ国の“男神的自衛権”思想はその後日本を覆いました。
アベノミクス理論は戦前の“女神性共栄圏”思想を“男神的自衛権”思想で焼き直すおかしなものです。
失礼な言い方かもしれませんが、表層的左翼的平和主義ではなく、聖徳太子などのナチュラルボーン“愛”ISMを持った人間がもっと表れないとこの国は変わらない。
いつの時代も“愛と尊重と助け合い”が大切なのですから。
女神性が何に対しても優しいわけではないということは誰でも知っているでしょう。
神社に行けば誰でもわかる。鳥居はどんな人でも受け容れるが、どんな行為も許されているわけではない。その優しさと厳しさの連続と連鎖こそが日本の女神性なのです。
フォーカスするべき地点を決して見誤らずにこれからも活動していきたいと思います。