住吉大社巡礼記_2
Hさんに頂きました『大阪の原型(司馬遼太郎)』の中で気になった部分を挙げておきますね。
応神天皇が亡くなったのは大隅の宮だったという。この大隅の宮は、現在の大阪市にあった。詳しく言うと、当時の大阪の河口の中洲のひとつである大隅島に存在した。『大阪の原型(司馬遼太郎)』
これは非常に気になりますね。Mさんとの話の中で大隅国と住吉の関係(隅=住=墨=角=澄み)が非常にクローズアップされましたので、応神天皇がとても隠喩的なものであると思いました。
昨日ふいに、帝(みかど)が御角であることに気付きました。つまり、『角』こそ天皇なのです。皇のことをスメラと呼びますが、おそらくはスミメラとかスミラというような語源もあったのではないかと思います。
だからこそ住吉大社には南朝の守護神となるべく大義があったのではないかと思います。
この御角(みかど)の信仰の原信仰が何かと考える時、やはりそれこそwikipedia:ミサキではないかと思います。つまりミサキが神武天皇を先導したのではなく、ミサキそのものが皇(コウ)なのです。だからこそピラミッド型の山もコウヤマと呼ぶのです。
wikipedia:八幡神示顕のことは以前、かなり調べまして欽明天皇の金星信仰、宇佐神宮の古層に存在する北極星信仰、そして大元信仰の三体妙見⇒瀬戸内関東の三体妙見(三島信仰)へとつながっていきましたが、これら全てはどこかでひとつになるはずなんですね。
大阪湾の八十島祭は、やはりそのひとつの通過点となると思います。宗像三女神の三神一体が残され、なぜ大国主の三位一体の水信仰が封じられなければならなかったのか?この問題は、とても哲学的問題、つまり以前からお伝えしていますようにwikipedia:公会議で議論されるような非常に哲学的思考を持った人たちが<神の位格>について議論し、意図的に中央集権から除外したという痕跡が見られるのです。
これが西洋であれば想起できないほどの破壊が行われているのですが、古代大和の場合は非常に高い知性で封印され紐解かれるのを待っているという悲しみさえ感じるのです。
ここは本当に日本人的な未完の美学といいましょうか、ブルームーンの極限といいましょうか、青丹よし大和の国は、、、としか言いようがありません。
感情と論理の狭間で、時に恐ろしく情熱的に、反対に時に恐ろしく冷徹に、怒りと愛という人間的なる極限をFar Eastで表現し続けてきた離れ小島の民族。その鋭さと深さには本当に驚嘆せずにはいられません。
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