宗像デコンストラクション

昨日書きました3兄弟記事が、宗像三女神もしくは住吉三神であることがわかりました。

【八は富士見の末廣がり ドンドン広がる豚豚拍子】記事で書いた伊古奈姫・無限の泉が石清水八幡宮の三女神社ではないかと感じています。

おそらくは石清水八幡宮の地主神であったかもしれません。三女というのは宗像三女神であり、住吉三神であり、桂川/宇治川/木津川の三河川でもあるでしょう。

継体天皇はこの付近に樟葉宮wikipedia:交野天神社を築かれましたが、クスとは国津であり、楠であり、クロスであり、九頭竜であります。

継体天皇の陵は、wikipedia:太田茶臼山古墳wikipedia:今城塚古墳とされていますが、『記・紀』編纂時に公共事業として築かれた可能性がある他の大王稜と比較しますと非常に信憑性の高い陵ではないかと思います。

王墓名は、三島藍野陵(みしまのあいののみささぎ)です。三島の愛というのは良いですね。日本人が認識する愛という概念は最近できたものであるというのが通説ですが、宗像三女神の愛を感じれば天真名井や『出づる』という語自体がやはり日本人にとって『愛』と同じものを意味していたのではないかと感じます。

確か前回の新月あたりに石清水八幡宮の三女神社に伺っていますので、その浄化力というのはすごいと思いました。


鉱物はそれぞれの元素が結晶化したものですが、それは一時的に地上に顕れた結果に過ぎません。その一方で<水>は様々な元素を運ぶ原因になります。

男性性が構築を促す精神性ならば女神性は脱構築を促す精神性です。

この世に完全なる存在は生み出せるか。
その完全なる存在が生み出せているのなら、
なぜ、この世に現れないのか。wikipedia:脱構築

つまり、何が正しいかを議論している内は女神性を認識することはできないですし、女神や真名井と一体化することはできないということです。

そういう意味において宗像三女神というのは、そもそも脱構築しています。キリスト教はその神学論争においてロゴスとは何かを追求することによって進んできましたが、宗像は三神一体を根本原理とし、中心を定めないような仕掛けになっています。つまり、三角形の中心の幻影を拝むような構造になっています。これが朧月夜の信仰につながる縄文の心性でしょう。

唯一無二の神を拝ませようとするミスラの心性は、日本にもかなり根付きましたが、何もかもウヤムヤにしてしまおうとしてしまう縄文心性は未だに強く残っています。

雲ではなく霧。霧を積極的に使うことが脱構築を促します。wikipedia:霧島が気になりますね。

出づ霧が 御生れの宗像 さし(三四)照らし
よみ(四三)の女王 生まれ来る
ななつのミホツが光るとき 天から柄杓が降りてくる



異邦人 久保田早紀

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