Sacred WATER has come!

このブログは写真がきれいに見えるので、写真を入れたがりになっています^^

普通の人になっちゃったね♪なんて言われましてもこのブログの売りは難解さではないので、絶え間なく更新できていければ良いと思っています。


佐久奈度神社の案内板。なかなか乙な形になっています。桜なのか何をモチーフにしたのかはわかりませんが、きれいな印象です。もう2年以上も前の訪問ですが、かなり印象に残っています。



その佐久奈度神社の境内にある瀬田川に向かった石舞台。過去、ここが伊勢へと向かうための禊場であったことの名残の思想を感じますよね。全然、違う目的のために使われてるかもしれませんが。。ここの社地は移動されているようでもありますし。


各地を巡っていましても聖なる地に入る前に清浄な水で禊を行っていたのは、ごくごく最近まであったようです。それは前提として、その場に清浄な水が湧いていたことの裏返し。


その文化ごと失ってしまったのが戦後66年の歴史。

原発の問題とは言いますけれども、このような私たちの先祖が一体、何を拝み暮らしていたのかを見直さないと何ものをも取り戻せないとは思います。


私たちの先祖はただなんとなく生き、ただなんとなく笑っていたのではありません。

お百姓さんにとっては、生きることは神を拝むことであり、まさに生は聖でありました。水がなければ作物はできませんから、雨を乞うことはお百姓さんにとっても、その作物の恩恵にあずかっている人にとっても重要な儀礼でした。


例えば、先日訪問していました六甲山山頂の磐座にまつわる古文書においては、遠く讃岐(香川県)や河内(大阪府)などからの代表者が一同に介して雨乞いを行っていたという記述が残っています。


そこにはやはり同じ聖なるものを敬う人たちの和や祈りがあり、たとえそれが非効率的であったとしてもそこには神聖な意識が存在していました。


それを単に、野蛮で時代遅れで手間のかかるカルト的な信仰と捉えている方がいるとすれば、ひょっとしたらその方は、生命の”生と死”という問題について真剣に哲学的に考えたとこのない人なのかもしれません。


生命が生まれ死んでいくサイクルの中には、とてつもない神聖さがあります。その神聖さを祀っていたのが私たち日本人の根本的な思考パターンです。


和歌山県に産湯海水浴場というものもあります。神功皇后伝説があります。


それ以外にもごくごく最近まで神社やお寺にあります泉を産湯に使用していた地域も少なくありません。

そういう文化が根底から喪失され、水も枯れてしまったのが、ごく最近の話なのです。1万有余年の日本人の豊かな森と水の文明がたった66年ほどで破壊されてしまったのです。


66の暗号は瀬織津姫なので、もう来てるでしょう。




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